- ベストアンサー
関ヶ原の戦い 手柄一番多かったのは?
関ヶ原で攻めまくってすみません…反省してます 関ヶ原の戦いで最も勲功をあげたのって誰ですか? やはり17の首級すべてに笹を立てて目印として「笹の才蔵」の異名がある可児長吉でしょうかね? 宮本武蔵も関ヶ原に参戦してたのはびっくりしました☆
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
石田三成でしょう。 戦前の状況では彼我の戦力差など、どうみても豊臣方有利だったのに、小早川、朽木、脇坂、島津、吉川ら裏切者~傍観者を多数だしたのは石田三成の統率力のなさによるものです。さらに豊臣恩顧の黒田、福島、池田、加藤、蜂須賀らは三成憎しの一念から東軍についたわけですから、家康から見れば三成さまさまです。 かりに豊臣方総大将が三成でなく直江兼続や立花宗茂だったら東軍のボロ負けだし、そもそも三成さえいなければ加藤清正あたりが大阪方の大将になった可能性もあるので、そもそも関ヶ原の戦いが成立しません。 よって東軍勝利の最功労者は石田三成。 あと無能なのに西軍総大将をうけた毛利輝元や、秀頼の出陣を拒否した淀君あたりが第二の功労者ですかね。いずれにせよ西軍側の敗因の大もとを探るならこの辺になりそうです。
その他の回答 (9)
- shirokuro1533
- ベストアンサー率44% (41/92)
#8です ご指摘のように、豊臣恩顧の大名を統制するための大盤振る舞いだったのかもしれませんね。
お礼
ありがとうございます
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (817/3047)
福島正則 豊臣家が清州に蓄え福島正則に管理させていた兵糧米があったからこそ徳川軍は関ヶ原に軍を展開できたのです。 福島正則が徳川につかなければ、徳川家はとても遠方を遠征することができませんでした。 せいぜい駿河遠江を制圧する程度でしょう。 関ヶ原の一番のキーマンは福島正則です。
お礼
あのころ福島はピークでしたかね… そのあと広島城無断改築で改易… 死後4男が葬儀を届け出ず 川中島3000石に改易… 結局りようされるだけされて捨てられました
- shirokuro1533
- ベストアンサー率44% (41/92)
首級という面では、質問者様があげられる可児才蔵なんでしょうね。それ以上の首級の話をきかないので、たぶん最多なんでしょう。勉強になりました。流石です。 その他を考えたら、論功行賞で、ずばぬけて飛躍した加藤清正の働きも見逃せませんね。 開戦時点での西軍諸将の煮え切らない態度は、やはり加藤清正の遠地での働きぶりを伝聞し、関ヶ原で西軍が勝っても、家康を打ち漏らしたのであれば、無傷の徳川本隊に加え、小西らの所領を蹂躙した加藤清正などが参戦。これでは長期的に見れば負け戦は必至。 そんな恐怖心を与えたからこそ、西軍の動きは鈍化したのでしょうし、隣国が小西行長という面も多々あったでしょうが、それにしても、関ヶ原で槍を交えずにあれだけ論功行賞で評価されたのであれば、東軍として旗色を鮮明にしながら、なお遠隔地で脅威を感じさせた加藤清正は恐るべし。といった所だと思いました。
お礼
家康は加藤の本心を知っていた 加藤は福島と違い本心は三成憎しで東軍加担ではなかった…だからこそ戦後肥後55万石という莫大な所領を与えている 現に加藤は 家康と秀頼が会見したとき万一家康が秀頼を暗殺しようとしたら刺し違えてでも家康を斬る覚悟でふすまの裏に控えていたぐらい豊臣家への忠誠は強かった だからこそ多量の知行で厚遇する必要性を家康は感じたのだと思う
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
名もなき雑兵説 これは勝手な私の想像です。 私は、関が原の戦いが、たった1日で終わり、天下の趨勢が決まったことに天運というものを感じます。 東北の直江兼続や、九州の黒田官兵衛といった軍略家さえも読めなかったと思います。 秀忠の遅れが、慎重な家康に届いていたなら、いくら戦の経験豊かな家康も決戦とせずに、持久戦としてにらみ合い、時間を稼ぎたかったのではと思います。 そこを、血気にはやった東軍か西軍の雑兵が勝手に動いて、決戦の火蓋が切られてしまった。 しかし、その名もなき雑兵が歴史の「時」を作った。 戦国時代の下克上の時代の主従関係というのは、どのくらい規律があったのか疑問です。 歴史カテゴリは、質問がカルト化しても答えうるかなりのつわものぞろいなので、みそぎを受けます。 時はいま、天のしたしる、長月か 歴史探偵 明智小五郎光秀 おそらく3時間天下(笑)
お礼
真実はその日その場所にいた人にしかわかりませんね
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
勲功一番は福島正則でしょう。彼が東軍に真っ先に味方したことが何より大きいかと。戦後の加増にも如実に表れています。 福島他への調略を行ったとされる黒田長政が二番手でしょうか。苦戦しながらも機転を利かせて島左近を負傷させ、石田勢の動揺を誘った戦術面でも評価できます。
お礼
福島は単純でしたね 三成憎しで家康の口車に乗せられ… 大将が三成じゃなかったら 加藤も福島も黒田も豊臣についたはずです 黒田が左近を負傷させた戦術は評価できますね
むしろ石田三成に関しては たかだか4万石の大名が 反徳川連合を糾合して 五分の対峙に持ち込んだこと自体が こいつはすごい!と思います。
お礼
正式には近江佐和山18万石… まぁ半分を島左近にあげてたので実質9万石
- river1
- ベストアンサー率46% (1254/2672)
#2ですが 小早川、朽木、脇坂、吉川らの裏切りは、事前の根回し工作があったから実現した。 合戦中に突発的な裏切り等ありませんから。 彼らの情緒不安定にしたのは、誰なのでしょう? 事前工作をしていたのは、黒田長政ですよ。
お礼
まぁそうでしょうね 小早川と吉川はそうですが 脇坂 朽木 赤座 小川は小早川の麓に布陣して小早川が寝返ったので便乗しました この4将に関しては根回しはありません 黒田は始め加藤善明の援護をしていた…しかし前線の福島隊が島に崩され 松平隊も壊滅 黒田隊も死者700余り 負傷者500も出してます 島左近の軍勢相手にですよ 事前工作してたならこんな回りくどい戦い方するかな? 曲がりなりにも黒田官兵衛の息子ですよ
- river1
- ベストアンサー率46% (1254/2672)
勲功と言うかは、定かでないが、勝利に一番貢献したのは、黒田長政でしょう。 彼の軍略と作戦が合って勝利したのですから。
お礼
黒田長政は最初 島左近に壊滅寸前まで叩きのめされました… で残った数百の兵で鉄砲隊を組織し左近を狙い撃ち… 多分左近を殺さなければ黒田長政は討ち死にしていましたね
こんにちは。 西軍を裏切った小早川秀秋です。 明治時代、関ヶ原の戦いの布陣を外国人将校に見せたところ、 「西軍の勝ち」と言ったそうです。 東軍は徳川秀忠が遅れている事もあって、開戦の布陣では 圧倒的に西軍が優勢だったのです。 なのに小早川秀秋が裏切る事によって半日で決着がつき 東軍が勝利を修めたのですから…。 しかし裏切った小早川秀秋は狂い死にしたそうですが…。
お礼
小早川は確かに1万5000の軍勢ですが まぁ寝返りを功績とするなら確かにそうかもしれませんね
お礼
そうです そうです 真田親子が参戦してても戦況は変わったかもしれませんね 3万5000を釘付けにした戦術ですから 関ヶ原に来てたらあっという戦術を使って家康の首ぐらいとったかもしれませんよ 毛利輝元はなぜ大阪城に居たのかも疑問 秀頼の守役と言われればそれまでだが 輝元が参陣してれば吉川広家は動かざるおえなくなり戦況も変わったはず