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自利か利他か、仏教的にどう考える
日本には、自分を犠牲にする、とくに命をかけることを美談とする風潮があります。 ハラキリ自害とかね。 戦争の玉砕とかね。 現代でも鉄腕アトムもそうでしたし、『法華経』信者の宮沢賢治は、『法華経』常不軽菩薩品第二十に登場する菩薩をモデルに『虔十公園林』を書いていますが、主人公の虔十は途中で亡くなっています。 つまり、命がけで事をなしています。 しかし、お釈迦様の仏教を継承するとするテーラワーダ仏教は、そういう考え方を否定して、自利があってこその利他だといいます。 さて、自利か利他か、仏教的にどう考えますか?
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「自利」と「利他」は、仏教的には、『カルマの法則』を元にして考えると、分かりやすいと思います。 『カルマの法則』とは、『自分の為した行為は、時間差はあっても、善行は利益として、悪業はデメリットとして、自分に返ってくる』という法則です。 つまり、「利他」の行為は、時間差はあっても、いずれ必ず「自利」として返ってくるという関係です。 「自己を犠牲にする」「命をかける」、例えば「ハラキリ」「自害」「戦争の玉砕」が善行になるかは疑問です。 つまり、これらは、必ずしも「自利」でもなければ「利他」でもない。 例えば「命を懸けて」何を行ったかでしょう。 シャカムニの教え・実践では、苦行、つまり、過度に自己を痛め付けるだけの修行は否定されています。 つまり、苦行は無益徒労の行為として否定されます。 しかし、激しく修行する、「精進」することを説いています。 それが、シャカムニが語った「自利」となる修行は推奨されています。 また他を救う「利他」の実践は、ジャータカ(シャカの輪廻転生の物語)で、「命を懸けて」行うないもあります。 シャカムニは、その様な「利他」の実践の蓄積で、ブッダのステージを達成されたと聴きます。 参考になれば幸いです。 シャカムニのような優れた、優れた「自利」の修行、そして他を救い利益をもたらす「利他」の実践を素晴らしく思います。 また、貴方の正確に理解しようとする実践を称賛します✨。 利益ある興味深い質問、ありがとうございました❤️。
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- kurinal2
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>きわめて不衛生だ。 女は、コワイよ。 (曰く)「そうであって欲しい、と同時に、そうであって欲しいと、思わない」 ・・・本音と建て前とが、(日常的に)解離している。 人目が気になって仕方が無い。 (しかがって!)「化粧のノリが悪いというので、一日、不機嫌だ」 ・・・自分の息子でさえ、「万歳!」と送り出すような連中だ。 「Old Girls Network」のほうこそ、なんとかすべきだ、というのは、その辺で。 所謂「世麗美」が、望むと望まないとに関わらず、「修道女」たちは、彼女の前に跪いたものだ。 男には、真似が出来ん。
- kurinal2
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jipponge様、こんばんは。 (中村元先生の著書より、抜粋) 「すべては移り行くという認識にもとづいて、現実に即した柔軟性に富んだ実践原理が成立するのである。人生の指針として、こんなにすばらしいことばが、またとあるだろうか! 総じて人間の習性でろうが、年老いた者は昔を懐かしみ、昔あったものを何でも「良い(原文ママ)」ものだと思う。他方若い人は何でも新奇なものにひきつけられ、古いものを破壊しようとする。この二つの傾向は互いに矛盾し抗争する。 これは、いつの時代でも同じことである。最初期の仏教における右の詩句は、明言しているわけではないが、恐らくこういうことに言及しているのであろう。 しかしどちらの傾向も偏っていて、一面的でると言わねばならぬ。もしも昔のもの、古いものをことごとく是認するならば、進歩や発展はあり得ないであろう。またもしもすべて過去のものを否認するならば、人間の文化そのものが有り得ないであろう。文明は過去からの人間の努力の蓄積の上に成立するもので、あるからである。だから、新しいというだけで跳びついてはならぬ。 人間はどうかすると、人間の根底にひそむ、眼に見えぬ、どす黒いものに動かされて衝動的に行動することがある。だが、それは、進路をあやまり、破滅のもととなるから、「牽引する者(妄執)」に、とらわれていてはならない。 では、過去に対して、「どちらでもない中道をとるのだ」といって、両者の中間をとるならば、それは単に両者を合して希薄にしただけにすぎないのであって、力のないものになってしまう。 転換期に当って、或る点に関して古いものを残すか、或いはそれを廃止して新しいものを採用するか、という決断に迫られるのであるが、その際には、その決断は一定の原理に従ってなさねればならぬ。 その原理は、人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならぬ。それを仏典ではサンスクリット語でarthaと呼び、漢訳では「義」とか「利」とか訳しているが、(※)邦語でいえば「ため」とでも言い得るであろう。それは「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になるのである。(※原文ママ) 人間のよりどころであり、人間を人間のあるべきすがたにたもつものであるという意味で、原始仏教ではそれを「法(ダルマ)」と呼んだ。仏はその『法』を見た人であり、仏教はその『法』を明らかにするものである(だから「仏法」ともいう)。その法は、民族や時代の差を超え、さらに諸宗教の区別をも超えて、実現さるべきものなのである。」 ここの、 >「その原理は、人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならぬ。それを仏典ではサンスクリット語でarthaと呼び、漢訳では「義」とか「利」とか訳しているが、(※)邦語でいえば「ため」とでも言い得るであろう。それは「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になるのである。(※原文ママ)」 という部分の解釈が、少し難しいと思うのですが。 仮に、法律論的に、「こういうケースでは、このような結論に至るのが、望ましい」ということが、有るとして、 そうなると、「自利」も「利他」も、根は同じ、ということに、ならないかと。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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他人と助ける親切というのは、利他的行動が自己の充実につながるから、世の中の大抵は親切な人だ。 他人に親切にできない輩だけが、あなたのぶら下げた釣り餌で「もっともだ」というだろう。 クズ中のクズのたまり場で、きわめて不衛生だ。
- sutorama
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私利私欲 このような欲を捨て去ることの一点で思考するなら、自己犠牲であろうとも、こっそり死ねば良いだけの話ですので、自利的に死を美として祀ることは間違いでしょう 故に、仏教的には利他です しかし、利他は世俗や社会だけではなく、先祖や子孫、彼岸の先まで通じている考えであるかと思います
お礼
ご回答ありがとうございます
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