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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:邪宗とは?)

邪宗とは?

このQ&Aのポイント
  • 邪宗とは、原理主義に走り土着の風習を認めず他人を強いて教化せしめようとする宗教のことを指します。
  • 私は真言宗徒ですが、真言宗や天台宗は仏教から逸脱しており、本来の教えを失って堕落していると言われています。
  • 一方で浄土真宗は大乗仏教の本来の姿を忠実に守っているため、釈尊の教えに忠実であり、貧乏人にも優しい宗派とされています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • michael-m
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回答No.2

もともと仏教は誰かを崇めるための宗教ではなく、如何に生きるべきかを説いた思想ともいえます。 人によって思想が異なるのは当たり前の事ですから、誰が正しいとか誰が間違っているなどということはありえない。 真実に一番近いのは檀那寺の御坊のおっしゃることでしょうね。 仏教の諸悪の根源は慾です。 我が家の宗派である曹洞宗では禅を行いますが「欲を捨てようとする心が慾だ」と説きます。 つまり我こそはと思う気持ちは傲慢であり我慾だとします。悟りを得ようと求める心も我慾です。 だから曹洞宗では只管打坐、ひたすら禅(修行=生きること)を行う事を旨とします。 願いは人の自然な心の発揚であり安堵です。 安堵を求める願いも欲ではありますが、安堵がなければひたすら修行する事も出来ません。だから安堵を求める気持ちは慾ではないのです。でも気がかりを仏に預けられず自分で抱えて祈るのは慾になるのです。 人間が安心して生活するための心の発揚を止める事は新たな不安の種にしかなりません。 だから仏は安堵するために必要なものを与えてくれます。お大師様の水や温泉もその一つです。 安堵を求める人の心を邪とするならば、仏に至る道もまた邪でしかありません。 まして自らの進む道も見えないのに人の道を論じることは、まさに邪でしかないのです。 でも大切なことは何が邪であり、何が邪でないかではなく、自分の歩んでいる道のみを見つめることです。一心不乱であれば他の教えを論ずる暇はありません。

Thor9234
質問者

お礼

よくよく考えたらお釈迦様はバラモン教の土壌で育ちましたがその社会には否定的でしたね。 無宗教者で相手の立場に立って考え行動し慈悲を重んじ皆の幸せを願う方だったと思います。 何かを崇めるよりも現在の生き方を問う哲学的な要素の強い宗教なのですね。 だからその邪魔となるものが欲であり煩悩であるということなのですね。 そういった事は弟子たちは常日頃から分かっていたし感じていたでしょう。 中にはお釈迦様の本当に言いたかった事が書かれているといわれているお経がありますが 長年お説教をしてきて死期が近づいて急に本当に言いたかった事を説くなどと言う事自体 ありえないと思います。しかしだからといって偽経といって切り捨てるのは原理主義で あり行き過ぎていると思いました。疑問もあるけどいい事が沢山書かれていてそれを読んで 安らぐ人が大勢いるのだからよしとする寛容さこそ重要ではないかと思えるようになりました。 きっとお大師様もお釈迦様も目指すものや考え方は一緒だったと私は思います。 仏様やお経の解釈にばかりとらわれていないで世間に目を向けなさいということでしょうね。 鎌倉新仏教が成立した時代は世相が不安定であったので一神教的、一教義的な過激な宗派が出ましたが 原理主義だからといって邪宗と呼ぶのは傲慢なのかもしれません。 それを信じる人がよしとしているのならば大きなお世話というものですね。 >安堵を求める人の心を邪とするならば、仏に至る道もまた邪でしかありません。 おっしゃる通りだと思います。お釈迦様やお大師様の行為が無意味になってしまいますね。 民衆の為に井戸や温泉を掘ったり学校を建てたりお護摩等の加持祈祷が出来ませんね。 >欲を捨てようとする心が慾だ そうですね。とても難しいです。あまり意識するとよくないのかもしれません。 欲を捨てるのではなく欲がない状態、つまりあるがままに自然に生きる事を目指す といいのかもしれません。それが自他共に満ち足りた状態に繋がるのでしょう。 宥和一致とはまさにこれですね。

その他の回答 (1)

  • kiflmac
  • ベストアンサー率22% (160/717)
回答No.1

私の考えでは、違います。 邪宗の定義する事自体、これ(カルト含む)まで根を広げてしまっている現状では、出来ないと思います。全ての元を辿った所に答えを探してみてはいかがでしょうか? 質問者様の論理の迷路を「檀那寺の和尚さん」に説いて貰えたならば、それが質問者様の答えだと思います。 宗教心が乏しい私は、「宗教たるものは、信じている人に救いさえあれば良い物」だと考えて居ります。それが、人間の原動力にさえなれば良い程度の事で、”朝の占い星座カウントダウンで、1位”これで「良い気持ち」が生まれれば十分だと思いますよ。 信者に救いが、そこに有る限りは”原理主義に走り土着の風習を認めず妥協せず他人を強いて教化せしめんとする宗教”であってもしょうがない事だと思います。 根源が一緒でも、価値感が異なる事は歴史を積めば当然です。 邪宗を決めるのは、質問者様でしかなく、他人に強要する事でも無いですし、逆に他人に強いられるモノでもないと思います。

Thor9234
質問者

お礼

目から鱗です。 よくよく考えてみたら私の宗派は「宗教心の乏しい一般人を対象とした宗教」と言えなくもないです。 面白い事に和尚さん曰く「真言宗は突き詰めれば突き詰めるほど複雑で深く理解するのには一生かかる」そうですから信仰心の篤い人向けでもあるそうです。 しかしおっしゃる通り宗教は「宗教たるものは、信じている人に救いさえあれば良い物」とも言えるかもしれません。 お大師様はやはりそんな一般の人々のニーズに合ったものを差し出す事の出来たお坊さんだったのですね。そもそも一般大衆の気持ちを無視して大乗仏教もなにもあったもんじゃないですからね。 邪宗などどいう概念自体が派閥争いのような無意味な概念なのかもしれない、そんな気もしてきました。 学校に色々な考え方の先生がいるのと同じなのかもしれませんね。 そもそもカルトでも幸せならば他人にとやかく言われる筋合いありませんものね。

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