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関ヶ原で 西軍 勝利
歴史に もしも を言ってはいけない しかし もしも関ヶ原で西軍が勝利する可能性 西軍が勝利するシナリオってありますか? 関ヶ原に西軍東軍が対峙した状態で 西軍に裏切り者 日和見がでず 西軍全軍が東軍と戦ってたら それでも西軍は東軍に勝てなかったですか? 小早川 吉川なども全軍東軍と全力で戦います そうしたら西軍は勝ったのでは(少なくとも関ヶ原では) 歴史に詳しい方 もしもの話でなんですが 教えてくれませんか? 史実では 小早川が裏切り 吉川は動かなかったそうですが その時に 急に気が変り やはり西軍として 東軍と戦おうとかなかったのでしょうか? 小早川1万五千と吉川四国勢2万が東軍に襲いかかったら 状況は一気に西軍に有利になったと思うのですが どうでしょうか?
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- oska2
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>歴史に もしも を言ってはいけない 言ってはいけない!なく、「もし」は存在しないというだけです。 もし〇〇だったらは、歴史が好きな方は自由に話していますよ。 >西軍が勝利するシナリオってありますか? あります。 明治時代。帝国陸軍首脳が招いた欧米の軍人顧問団に、「関ヶ原の地図及び武将の配置図」を見せた時「西軍が勝利した」と欧米の軍人は断言したとの記録があります。 約250前の西軍の作戦は、明治時代になっても有効な陸戦の作戦だった様です。 やはり、小早川軍・毛利軍の動きが勝敗を分けた様ですね。 余談ですが・・・。 小早川が裏切ったとか毛利が動かなかった・・・。 は、明治政府の歴史の書き換えです。 小早川金吾中納言は、戦いの前に「政所さまから、指令」を受けていた様です。 「家康様に・・・」 当時の記録では、家康は「豊臣政権内の権力争い」と政所に伝えています。 政所としては、加藤清正・福島正則など豊臣恩顧=養子を大事にしますよね。 今も昔も、一族経営の会社では中途採用は信用されない・・・。 単純に、石田三成だけが豊臣恩顧の武将が味方!と信じていたのでしよう。 大谷吉継・島左近などは、小早川軍などが味方でない事は開戦前から知っていました。 実際、大谷軍は小早川軍に対しての陣をしいていますよね。^^;
- eroero4649
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>西軍が勝利するシナリオってありますか? 石田三成がもっと能動的に秀頼を動かすことができればその目はあったかもしれませんね。 石田三成が不俱戴天の仇である福島正則に送った書状が残っています。そこには、恩賞で正則を味方になれといってるんですね。 ここがねー、三成の「分かってない」ところだなと思うんですよね。福島正則は自分を嫌っているんだから、恩賞なんかで味方になるわけがないんですね。 どうすりゃよかったかというと、「秀頼様はお前をすごーく頼りにしているぞ」と情に訴えかける方法だったと思うのです。福島正則と加藤清正は三成を死ぬほど嫌っているけれど、豊臣家に対する忠誠心は随一です。なので「こっちにつくことが、豊臣家への忠誠心なのだ」という流れにもっていくべきだったでしょうね。 ただ、関ヶ原の戦後に秀頼は一切責任が問われていません。巻き込まなかったというより、巻き込めなかったのだと思います。 そして毛利輝元がなぜ西軍の総大将を引き受けたのかもよく分かりません。三成や輝元が何をしたくて決起して、どういう戦略を練っていたのか全然分からないので、迷わず行けよ行けば分かるさの猪木イズムで深く考えずに決起したのかなと思わなくはないですね。 関ヶ原の決戦のときには、家康的にはもう勝敗は決していたと思います。かつて自分が参戦した長篠の合戦の気分じゃなかったかな。長篠の合戦は、武田軍を野戦に引きずり出した時点で織田徳川連合軍の勝ちは確定していました。戦略家信長の真骨頂だったと思います。 「小早川軍と吉川軍が東軍に襲い掛かれば」というのは、それがないと家康は確信していたからあの陣形に出たと思います。三成を自分の最も得意とする野戦に引きずり出すために、西軍の罠にかかったかのような出陣をしたのだと思います。 個人的には、石田三成との合流を目指して進軍していた立花宗茂が関ヶ原に間に合っていたらどうなっていたのかなという興味はあります。 そしておそらく家康は立花軍らが合流する前に決着をつけないとマズいと判断してやや危険にも思える勝負に出たのだと思います。そのへんはさすがにあの武田信玄を相手に切った張ったをやった天下人の決断力でしょうね。
お礼
やはり秀頼の使い方ですか 自分を嫌ってる人を味方につけるのに 恩賞だけでは無理ですよね やはり情に訴えかけないとね ここで立花がでてきましたか 確かに立花は東軍と戦う気がありましたからね 関ヶ原に 小早川ではなく 立花ら九州勢を布陣してたら 歴史は判らなかったかも ですね 有り難うございます
- runatickdance
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西軍が、勝っていたら、 徳川300年続く歴史は、 無く、戦乱期が、長く続き、 関東平野も開拓されず、 東京一面も沼地で、 日本の首都は、 大阪か京都。 東京は、沼地などで渡り鳥の 聖地になって、観光地になって いただろうね。 もちろん、大阪を中心とした高速道路開発で、関東一円は地盤弱く避けていただろうね。 関ヶ原の戦いで、 それぞれの武将が、どちらに つくかは、仁徳ある方に 礼儀ある方につくのは当たり前、 太閤さん亡くなり、 数々の忠義を正す、礼儀知らずな 跡取りが、骨組みを形成できなかったわけで、裏切りとかでなく、 最後まで悩んだ結果、新たな時代の方に賭けたのではないかな。 まして、徳川軍はそれほど強く秀でたものは無かったが、徳川家康の 配慮ある人徳が心に残り、 たぶん心配症みたいなお人で、 集めた武将の顔色伺い、最善のおもてなしをしてきたのではないかな。 太閤さん生きてるときは、 常に自己中で無理難題を押し付ける 人物で亡くなった後は、各武将は、 ホッとされた背景があり、 されど大平な世の中から、 また、戦国時代になるのかさえ、 危ぶまれた時代。 近隣諸国も誰もが他の諸国の出方を伺い知れた時代。 太閤さんの後継があまりにも 幼く弱く誰もが不安に悩み苦しみ、 まさに誰を主として、己の国を 捧げるのか、本当に太閤さんから 労われていた武将の国だけが、 豊臣軍に残っただけ。まして、裏切りとか言われてますが、主人亡き後の己の国を任されてる武将には、 己の国の行く末だけが、肩に重くのしかかり、また何千という部下の 兵士の命を任された武将ゆえ、 全滅よりか少しでも生き残る方へ加担する選択が正しきあの時代の 行いだったのかと思いますよ。 だからこそ、戦いをよく見える先陣場所を占領し、最後の最後まで、 運命を模索して究極の選択を身を削るような思いを したかと思いますよ。 周りの諸国は後に非難したが、 自分の国の民からは、良き選択したと言われてきたかと思います。 また、当時の両軍の情報収集すら大変だったかと。あの戦いで、もし 西軍が勝っていたら、、、 もちろん日本という国は西から 始まったから、大阪辺りが日本の 首都でも私は、ふさわしいかと 存じますね。すべてが西にありますし。京都御所も金銀作成も 天皇墓所もあるし、江戸城あとに 今門天皇御所があるのは、やはり 違和感ありますしね。 本来なら西が中心だろうね。
お礼
色々と 有り難うございます
- pri_tama
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>もしも関ヶ原で西軍が勝利する可能性 >西軍が勝利するシナリオってありますか? 毛利輝元が、豊臣秀頼を伴って美濃以東へ進軍していれば、勝利確定です。 それをしなかったから、西軍は敗北したのです。 徳川家康は自ら関ケ原に出てきていたのに、毛利輝元は日和って大阪から出ませんでした。 西軍諸侯が自分たちが捨て駒にされたと思っても致し方ないかと思います。 (美濃の諸武将は、関ケ原の開戦前[岐阜城落城前後で]に西軍⇒東軍に寝返っている。) なお、小早川秀秋は関ケ原の開戦前日に松尾山に布陣していた伊藤盛正[美濃大垣城主]を追い出して布陣しました。 これって、つまり小早川秀秋は関ケ原の開戦の遥か前に東軍としての行動を取っていたという事です。 松尾山は、美濃と近江の国境を封鎖する地であり、ここを反西軍派の行動を取る小早川秀秋が占領した事で、時系列的に大阪との連絡路を絶たれた石田三成率いる西軍が慌てて大垣城から出兵して関ケ原に移動したと見れます。 (石田三成らの西軍主力は、雨降る夜間に移動し、寝る時間も食事する時間もたいして確保できずに、翌日の東軍との決戦に挑んでいる) 通説では、小早川秀秋が徳川家康の問い鉄砲で西軍を裏切ったとされますが、現地で松尾山から北方へ山を下ると何処へ行くかを実際にやってみれば分かります。 (松尾山を北方へ下ると福島正成の陣を攻撃する事に成る。) 小早川秀秋が通説に言われる様に大谷吉継を攻撃しようとすると、一端松尾山を南下し山を時計回りにグルっと迂回する必要に迫和れます。 小早川秀秋の決断から実際に大谷吉継を攻撃するには、数時間の時間を要しますから、通説に言われる様にギリギリまで迷った訳では無く、早い段階で裏切りを決断して行動していた可能性が高いです。 なお江戸時代が長く続いた性で、徳川家康を過剰に持ち上げる歴史が紡がれましたが、関ケ原の先陣を福島正成から奪い取るなど、徳川の情勢に余裕が有ったとは思えません。 徳川家康の本当にすごい点って天下分け目の一点をちゃんと見極めて、自分が参画[指揮を執る]する必要が有るタイミングを逃さない点だと思います。 (毛利輝元には出来なかった事ですから…。)
お礼
そうですか 毛利輝元が秀頼を伴って進軍すれば 勝つ可能性があったわけですね それをやらなかった出来なかったのは痛いですね 有り難うございます
- head1192
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小早川たちの内応、静観が確約されていなければ東軍は関ヶ原に進軍しなかっただろうし、その場合は長良川を挟むか大垣城や岐阜城をめぐる戦いになっていたはず。 つまり、関ヶ原合戦自体が起こらない。 慎重な家康が起こさせない。 合戦は最後の仕上げにすぎず、そこに至るには内政、外交、調略、資金、兵站、戦略、戦術、配下の掌握、訓練、などの膨大な積み重ねがあるのである。
お礼
なるほど 関ヶ原合戦自体がおこらないのですね 有り難うございます
お礼
関ヶ原開戦前から 裏切りの兆候があったわけですね やはり 小早川 吉川が キーポイントだったですね 有り難うございます