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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:明石全登について2)

明石全登と豊臣恩顧の関係について

このQ&Aのポイント
  • 明石全登は豊臣恩顧を受けていたのか疑問です。
  • 関ヶ原の従軍やバテレン追放令についても考えたいです。
  • みなさまのご意見をお聞かせください。

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回答No.4

もちろん最初から負けると分かっていて戦ってた連中は豊臣方には一人もいません 真田幸村が参戦してたのを見れば分かるとおりです せめて幸村にあと5000の兵があれば勝ててたかもですね しかしですが明石は宇喜多の家臣ですが当時宇喜多家はすでに無く 主君秀家も八丈島です そう考えるとやはり宇喜多のために命をかけたというよりは その実力を放っておくのが惜しいと考えた後藤又兵衛に誘われたからと考えるのが自然です 食べてるのはパンです♪

shirokuro1533
質問者

お礼

そうですよね。 たしかに勝ち戦である可能性は極めて低い、こういうとあれですが、少なくとも勝算が5分と5分ではなかっらでしょうから。 でも一縷の望みにかけて後藤又兵衛も人材集めに奔走し、その中のひとりが明石だったのでしょう。 寡兵で大軍をやぶる例なんて枚挙にいとまがありませんしね。 戦国の最後を飾る戦ですからね。「武田信玄?あぁヤリ合ったけどボロ負けだったね!」とか「信長公?子供に切腹申しつけられた時は正直泣いたよ」などなど、当時ですでに絶滅危惧種であり、もはや戦国の筆頭生き証人である家康のもとで戦えることも価値あることですが、その家康に挑戦するってのもすごい話ですよね。 いずれにせよ”パン”もふくめて回答ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

大阪夏の陣で豊臣恩顧はそれこそ真田幸村ぐらいです あとは浪人の寄せ集め 全登は友人の後藤又兵衛に請われて参戦してます たしかに秀吉はバテレン追放令をだしていますが 大阪夏の陣のとき秀吉はすでに亡く 当主は息子の秀頼です 高山右近は秀吉から「私とデウスとどっちが大事か?」と聞かれ「デウス」と答えたためマニラに追放されました しかし全登や小西行長はそのような事はされてません 何故か?宇喜多家の家臣だからです 宇喜多秀家は秀吉が最も可愛がっていた大名で 自分の名前をとって秀家とつけたり 豊臣姓を名乗らせたり さらには若くて石高も少ないのに五大老に就任させたり 妻の豪姫は前田利家の娘ですがわざわざ秀吉は自分の養女にしてから嫁がせるなど どれをとっても破格の待遇だとわかりますね そんな宇喜多の家臣なので しかも宇喜多騒動のときは秀家に従ったので秀吉はそれに感謝し追放しなかったという面も少なからずあると思います 大阪夏の陣は最初不参加の予定が後藤又兵衛の頼みですから断るわけもなく参戦です あの戦いは豊臣恩顧とかいうより 友人関係とか義理 人情で参加した浪人が多いです 真田幸村 後藤又兵衛 塙直之 長宗我部盛親 明石全登 毛利勝永 木村重成 北川賢久 長岡興秋 大谷吉久 などなどです

shirokuro1533
質問者

お礼

なるほど…浪人の寄せ集めですか…確かに…ですよね… やっぱり大樹が今まさに倒れるって時は、どこも似た感じなんですかね?大阪で冬・夏に集結する人たちって、五稜郭まで戦い続ける土方歳三のイメージと重なります。 いずれにせよ豪姫の関連からか、外様でありながら豊臣の親族的な扱いを受けた、宇喜多ならではの苦悩もそこにはあったんでしょうね。もちろん宇喜多家臣はその影響をもろに受けるというか。 回答ありがとうございました。 ちなみに本当に質問と関係ありませんが、画像で食べているのはパンですか?それにしては小さい気がして。ラスク?どうでもいいですね<m(__)m>

noname#229784
noname#229784
回答No.2

関ヶ原西軍に参加ってことは → 徳川に逆らった人を雇うと徳川家に目を付けられると怖い → 再就職が困難 → 大阪の陣に一浪人として参加 ってパターンじゃないのかな? 当時の情勢からみると、豊臣方にも十分に勝ち目はあったので、特に不自然ではないかと。

shirokuro1533
質問者

お礼

あぁ… 僕もそんなイメージなんです。関ヶ原を境に、なんかレールに乗っちゃったみたいな… 関ヶ原時点で、毛利の吉川広家や安国寺恵瓊みたいに、当主に対して意見はできなかったんでしょうかね?毛利と宇喜多では立場がだいぶ違ってので無理だったのかもしれませんが… ちなみにコーエーさんのゲームで「合戦」というのがあって、ゲームの中で明石全登はダンスパフォーマンスをしてました…あの演出は意味不明でしたね。質問内容とは関係ない話ですが。 いずれにせよ僕にとっては謎の人物です 回答ありがとうございました。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.1

明石全登の出自である備前明石氏は、もともと浦上氏の家臣で、先代の明石行雄は浦上氏が宇喜多直家に没落された際に宇喜多氏に帰属し、有力家臣となっています。全登はその地位を継承したわけで、豊臣恩顧というわけではありません。 バテレン追放令についてですが、これは禁教令ではなく、仏教迫害と強制的なキリスト教信仰を禁止したもので、信仰自体を否定していません(神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社選書メチエ)。バテレン追放令の目的は、キリシタン大名が、領民を強制的にキリシタンにしたり、領内の寺社を破壊することを禁止したもので、高山右近の改易(マニラ追放は1614年で家康によるもの)は、転封された播磨明石で寺社を破壊するなどの他教迫害を行っていたためです(山本博文『天下人の一級史料』柏書房)。 それこそ豊臣恩顧の小西行長がなんの処罰を受けていないように、その後も秀吉時代に大名が棄教をせまられたわけではありません。宇喜多氏でも秀家室で秀吉が溺愛していたといわれる豪姫を始め、多くのキリシタンがいました。また全登が受洗したのはバテレン追放令(1,587)の後(1596年)ですから、バテレン追放令と豊臣恩顧とは無関係でしょう。 豊臣恩顧の宇喜多秀家家臣であることが全登を豊臣恩顧とする誤解につながったのではないでしょうか。

shirokuro1533
質問者

お礼

なるほど。 バテレン追放令以降に洗礼を受けるってのも不思議な現象ですし、まぁ同時代のバテレン追放令がキリシタン大名の持つ信仰自体については、やや緩やかな禁教だったってことなんでしょうね。 いずれにせよ明石全登については、仕事(武将)と信仰を分けて考えていたってことなんでしょう。渋々参戦というより、ボスが言うからにはそれが全てで「いざ関ヶ原!」だったのかもしれませんね。 参考になりました。