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日本史 名前の歴史
昔の多くの人たちは農民だと思いますが、しかし徴税のため戸籍はあったわけで じゃあそうなると「あの集落には30人いる」とか「この家には10人いる」とかわかると思います 現代人の普通の感覚として「この人は田中」「あの人は高橋」など、一般人に対してのその名前の感覚っていつからなのでしょうか?
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- SI299792
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昔は、名字の代わりに屋号がありました。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%8F%B7 苗字ができた後も屋号は残りました。「男はつらいよ」車という苗字があるのに、とらやという屋号があります。 私の子どもの頃、昭和4?年、田舎だったせいか屋号があるのが普通でした。私の家は他から引っ越してきたので屋号がありません。近所の老人に屋号を聞かれ、苗字を言っても理解してもらえず困った経験があります。
- eroero4649
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鉄道が普及する以前は、人は自分が住む集落から半径15キロ圏内から出ることもなく生涯を終える人がほとんどでした。なぜ15キロなのかというと、歩いて日帰りで帰ってこれる距離がだいたいそのくらいだからです。 だから自分の所属する集落の中で顔と名前が一致すればそれで困ることはほとんどありませんでした。 現代だって、佐藤さんや田中さんなんて山ほどいるのになんとかやってるじゃないですか。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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庶民にも苗字(名字)が許可されたのは明治3年の「平民苗字許可令」ですが、当初はウラがあったり課税されると思い苗字を付ける人が少なかったそうです。 翌年「戸籍法」が制定されるもまだ少なく、明治8年の「苗字必称義務令」でやっと皆苗字を付けることになりました。 苗字が無い人の大体は寺や名主などに付けて貰ったり、自分で考えて作ったりしたそうです。 苗字が一般的になる以前では住んでいる場所から「川辺の権兵衛」とか「東の与作」などでしょうね。 小さな村では名前だけでしょうし、その子供は「又吉んとこの勘吉」などという呼び方でしょう。 平安時代から納税逃れのため戸籍の改ざんや浮浪人の増加で戸籍が機能しなくなり、戸籍制度が消滅します。 江戸時代以前では個人にかける「所得税」のようなものは無く、年貢も検地帳に登録された田畑の持ち主からなので、農民の多くを占める小作人が支払う仕組みではありませんでした。 ※田畑地主と小作人 現代で分かりやすく言うとショッピングモールとテナントの関係ですね。 税金はショッピングモールの会社にかかりますが、テナント自体税金はかかりません。 その代わりテナントはテナント料を支払わないといけません。 一応村や町単位で「宗門人別改帳」を領主が、「過去帳」を寺が制作管理されていたそうです。 「宗門人別改帳」の手続きがなされていないと「非人」の扱いになったそうです。