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東海道茅ケ崎付近の姿 鎌倉時代

前々回の大河で、頼朝が橋の建築祈願の帰り道に茅ケ崎で脳卒中っぽく落馬して死ぬシーンが出てきました。 この時の景色なのですが、鬱蒼とした針葉樹林体の巨木が生い茂る中の細い道といった感じです。 この時代の東海道の茅ケ崎の様子ってこんなにうっそうとしてるのでしょうか? 湖沼地帯の湿田が多い中を丘になった場所に、松がチョロチョロっと生えているというのがこれまでもってた印象なのですが。 浮世絵だとそんな感じだと思います。

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  • eroero4649
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回答No.2

鎌倉時代はそんなに開発が進んでないはずですから、だだっ広い荒れ地が広がっていたと考えるのが自然だと思います。 ただ、「そんなロケ地は日本国内にはない」と思いますけどね。CG使えばいいですけど、結構お高いんですよ、CGって。 頼朝は「落馬して死んだ」と、ものすごい一言で片付けられてるんですよね。いや創業者なんだから、その最後を一言で片付けるのはどう考えても不自然じゃないですか。 頼朝が鎌倉にいたのは、鎌倉は三方が山、一方が海で防御に最適だったからといわれていますが、私は「北条家が頼朝がどっかに逃げないように、あるいは誰かが外部から頼朝を連れ去らないように監視できる鎌倉に置いておいた」説のほうがしっくりくる気がします。 そして頼朝は「平家という敵がいなくなったので、不要になった」んじゃないかなと思うのです。その後あっという間に源氏一族はいなくなっちゃって、結果論かもしれませんが北条家の執権政治となってゆきますからね。

jkpawapuro
質問者

お礼

確かにだだっ広い荒れ地の丘を走る街道って、景色がいい分いろいろ金と手間がかかりますね。 鬱蒼とした森にしてしまえば作るのが簡単で雰囲気もそれなりに出ると、納得です。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • gunsin
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回答No.1

坂東は未開の地ですから、NHKの時代考証の通りと、思いますね。 鎌倉が出来て、鎌倉街道などの、道が整備され出したのでしょう。 利根川が氾濫を度々するので、江戸は湿地帯でした。 日本の街道は持統天皇が整備し始めたと、されてますが、それは、 商いなど庶民の為でではなく、全国の年貢を奈良に集める為の事 なのです。 伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に居を構えた、辺りから、坂東は 治まり始めました、上杉謙信が邪魔をしなければ、もっともっと、 治まっていたのではと思ってます。 その後、徳川家康が利根川の流れを変えるなどして、大東京の 基礎を造り、主要街道の整備も行いました。 浮世絵で見られる、東海道、中山道は、家康が整備した、姿です。 ------------------------------------------------------------------------- 小田原は家康が城創り、街造りに、参考にしたと、されてます。 伊勢宗瑞を大河ドラマにして、全国区の知名にして貰いたい 武将です、NHKさん、御願い申し上げます。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

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