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平家物語・鹿谷

平家物語の鹿谷の章段についてです。 徳子が入内する記述があり、徳子の年令、法王の養子、という文が続く部分があります。そして、段落が変わり、【その頃】師長が大将を辞任した、とあります。 調べてみると、 徳子の入内は、1171年。 師長の大将辞任は、1177年でした。 これは作者が年を間違えたのでしょうか? それとも、自分の調べた年が間違っているのでしょうか? お願いします。

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  • SPS700
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回答No.5

 #1です。補足です。  これは、あくまでも憶測ですが平安時代から物語は生まれ、1240年(仁治1)には語りものを文字化した『治久物語』6巻が完成しています。  琵琶法師は下記のように目の悪い人が多かったようですが、晴眼の弟子は書いたものを見て暗記しました。で「ここは切れ目じゃによってワシは手水に参るぞ」とみんな暗記してる先生はトイレに行く、紙が切れているのを思い出した弟子は「これを」と一枚ちぎって渡す。  ま、そんなことであそこが無いのかもしれません。  https://kotobank.jp/word/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B3%95%E5%B8%AB-122040

anon256
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その他の回答 (4)

  • SPS700
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回答No.4

 #1です。補足です。   長崎県高来郡加津佐町にあった(今は雲仙市の一部かも)イエズス会の印刷所で出した「平家物語』を忘れていました。   https://kotobaken.jp/release/news-190318-01/

anon256
質問者

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  • SPS700
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回答No.3

#1です。忘れ物dwす。 僕の原本は、  文学士内海弘蔵『平家物語評釈』明治書院(大正14年初版、昭和27年改修60版)定価480円  です。

anon256
質問者

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  • D-Gabacho
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回答No.2

質問者さまのお調べになった年に間違いはありませんが、かといって作者が年を間違えたともいえないように思います。 「鹿谷」には、高倉天皇の元服と徳子の入内は嘉応三年(1171)と正しく明記されていますし、次の「鵜川合戦」の段では、師長が太政大臣に、平重盛が内大臣兼左大将になった年月日を安元三年(1177)三月五日と正確に記しています。 徳子入内とは時期の離れた事柄を、年を明記しない「其の比(そのころ)」というあいまいな表現で無理やり同じ段にまとめたということで、年を間違えたわけではないと思います。

anon256
質問者

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  • SPS700
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回答No.1

徳子の入内は下記によると1171年です。 https://dengekionline.com/articles/114012/ https://nihonshi.info/12%E6%9C%8814%E6%97%A5%E3%80%80%EF%BC%9C%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%83%BB%E5%BE%B3%E5%AD%90%E3%81%8C%E5%85%A5%E5%86%85%EF%BC%881171%E5%B9%B4%EF%BC%9D%E6%89%BF%E5%AE%89%E5%85%83/ 師長の大将辞任は1177年です。  ですからお調べになったのは間違っていません。「その後」という言葉は原文にはありません。  原文では「御年十五歳、法皇御猶子の儀なり」で段を改めて「妙音院殿(=藤原師長)となっています。

anon256
質問者

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