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平家物語、どう思う?

平家物語の一部なんですが、これについてどう思いますか? 下にあらすじ書きます。蛇足です。すみません。 源氏と平氏の戦いは一旦終わり、源氏軍は陸へ、平氏軍は船上へ帰った。 そこで平氏軍の人が、源氏軍に『この扇を射抜いてみよ〜』的なことを言う。 その扇は船の上にあり波もあって霧もある、しかも距離も相当ある。最悪の状況。 源氏はそれにノって、源氏軍の中で一番と言われる弓の使い、与一にやれと命ずる。 その騒ぎに何事かって思った両軍がぞろぞろと集まる中、与一は見事扇を射抜く。 それを称えた平氏軍の1人の男が船に出てきて、舞い踊る。 だが、源氏の命令により与一は男の首を落とした。 この舞踊りに来た男についてどう思いますか? 与一が射抜くのは本当にすごいことです。それを称えようと踊ったのに殺されて可哀想だと思いますか? それとも戦場なのに安易に出てきたバツだと思いますか? 率直な感想を聞きたいです。

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回答No.6

与一は架空の人物では無く実在の人物です。 親兄弟は、平家が負けるなんてあり得ね~!!と 思っていたので、親戚や親兄弟一門は全て平家方 の陣中に居て、ひょっとしたら....という捨て石で 11男(だから与一という名前)を源氏方に参陣さ せたのです。 実際、この功績で後の北条早雲の総領である岡山 県井原市の荏原を所領として論功行賞を得ており、 那須家の命脈を繋いでいます。 義経は、この屋島急襲にあたり、頼朝の腹心で軍鑑 (軍師と総責任者的立ち位置)だった梶原景時と、 紀淡海峡を渡って四国に向かう時に、船の前後に櫓 を付けることで仲違いした挙句、途中で海が荒れて 十数人しか徳島の勝浦に上陸出来ませんでした。 途中で、土豪を味方に付けたとは言え、せいぜい200 人程度の小勢です。 そんな小勢で勝てたのは、策略に次ぐ策略で屋島に接 する、牟礼や高松の集落に火を掛けて大軍に見せかけ、 また予定外の陸路で攻めることになったことで平家方 の不意を突いて奇襲を掛けられたことです。 元々、正々堂々なんて性に合わない性格で、当時の合戦 の作法などフル無視、ゲリラ戦法が得意だったことから も、戦争に於いて、粋や作法などどうでも良く、とにか く勝つことに重点を置いていたことで、舞を舞った老武 者も射殺してしまいました。 源平双方、武士ではありますが、源氏方は河内源氏なので すが、平家方の公家風の家風と違い、武辺に寄っていたこ とや義経と弁慶以外の手勢も田舎の土豪の寄せ集めだった ことで、風流などは戦場に持ち込むなという趣旨です。 義経勢は小勢でマトモにやり会ったら勝ち目が薄いこと、 風流を楽しむ心の余裕も無かったのです。 平家方は天皇家に接近して当時の地位を築いたわけで、公 家風の文化も取り入れ、教養が高い武士が多かった事から、 舞を一差し踊った訳です。 田舎の無骨者と都会の文化人という差です。 ちなみに、扇を射抜いたら切腹モノです。 射抜いてみよ!というのは、現代的解釈で、実は真意は別 にあります。 当時、平家は屋島に臨時の御所を作り、正当血統の安徳天 皇を奉じていました。 扇は軍扇で太陽を表す日の丸です。 太陽=天皇というわけで、日の丸を射抜けば天皇家に弓を 引くと言うことになります、でも、命中しないと、なんだ その程度かよ?!と恥を晒します。 結局、どうだ天皇家に弓なんか引けないだろ? どう出る気なんだ?オイ、義経!! というのが平家方の真意なんです。 当時の弓は複合弓ではなく、張力そのものが弱く、 絶対に当てる必中は15m以内が限界で、20m以上に なると弓の名手でもどこに飛んでいくか分からない ....そんな弓を使っていました。 ですので、扇の的の時の距離が50m、しかも船は波 で上下に揺れているため、まずこの扇の要に命中し たこと自体が奇跡だったのです。 これで仕損じていれば、与一は切腹。 しかも、一門は平家方に参陣しているため、那須家は 断絶していました。 ちなみに、舞を踊っていた50歳くらいの老将を射殺 させたのであって、首は落とせていません。 なんせ船上ですから。 スゴイなんてものではなく、スーパーハットトリックに 近い偉業で、しかも平家も納得する扇を射抜かずに必中 させたわけですので、そりゃブラボー!!と踊りたくも なりますよ。 ちなみに、なんだその程度の小勢かよ?!と翌日、平家は 東側の志度湾を挟んだ死度(志度)道場(86番札所志度寺) 付近の海岸に再上陸しようとしたところを義経勢の猛攻に 上陸できず、壇ノ浦の彦島要塞に落ち延びて行きました。 実はこの話には続きがあり、実は平家方は別動隊で3000人 の兵隊も持っていました。 阿波民部と言って、高松市の有名なため池である平池を築 造した徳島の田口氏で、伊予の河野を攻めていましたが、 源氏急襲の報を受けて慌てて戻って来たところを、義経 一行と出会い、平家は逃げ帰ったというウソを「まぁ、連 中ならあり得るよな~」と納得してしまい、戦わずして投 降してしまった腰抜けです。 瀬戸内海沿岸の国司を勤め、在地の国人を配下にしており、 四国の中では抜群の有力配下でした。 もし、この3000が温存出来ていれば、平家方は逆転していた かもしれません。 ただバカだっただけに、最後まで使えねー奴で、壇之浦で敗 色が濃くなると源氏に寝返るものの、そんな奴は信用出来ない と、鎌倉に送られて斬首されます。 ちなみに、平家は海に戻ったのではなく、海から来ると思い、 現在の庵治町に軍船と兵を入り江の奥に隠して、源氏が海から 来たところを陸と海から挟撃するつもりでした。 それが、主力を分断し、大多数を海上に兵を分散させたため、 陸の守りが手薄になり、しかも一の谷で負けた嫌な思い出も あったことで、かなり臆病になっていました。 そんなところを、イキナリ予想外の陸から急襲されたことで、 恐怖心はMAX、戦わずして我先に船に飛び乗って海上に逃れ たのです。 で、落ち着いてみると、何のことは無いたったのあんだけしか 居ないじゃん.....となり、船上から討って来た源氏方と浜辺近く で戦闘になっただけで、ほんの小競り合いなんです。 平家方は弓と長柄の武器、源氏方は騎馬と弓手で攻撃しました。 で、日暮れ近くになったので、もう辞めようぜ!となり、じゃ、 ここで余興をやろうか....と件の扇の的となるのです。 源氏方、特に義経は、兄貴から送られてきた監視役の景時とケン カした挙句、軍団が雨散霧消して散々な始まりだった屋島御所 急襲だったわけで、何とか勝敗を決して後白河法皇の元に参じた かったわけです。 そんなところに、討ち漏らし、逃げられてしまったところで、 大した成果も挙げられない、まだ村上水軍は味方になる前で、 自前の軍船が無かったので、これ以上、追撃も出来ない,,,,,,,,, お前ら、この穴をどう埋めてくれるんだよ!!とご立腹です。 だから、呑気に舞なんか踊ってんじゃねーゾ!!とばかりに射 殺させたのです。 屋島は地元です。 現在は殆どが埋め立てられ、かつて島だった名残もありません。 元々、現在の隣接する高松市街は戦国時代に生駒氏が入封するま で大部分が干潮の時にしか陸地が出てこない干潟で、高松と牟礼 (この頃の、高松は現在の古高松がそうで、港がありました。生 駒が高松城下を作る際に、名前が被ってややこしいので旧高松( ふるたかまつ)を名乗るように強要されました)の沖合に浮かぶ、 まさに城でした。 義経方は、事前に近在の農家から牛を徴発し、人馬が歩いて渡れ る浅瀬を探索しており、屋島御所の南西の浅瀬を渡って、御所を 急襲したのです。※赤牛崎(あかばさき)の地名が残る 御所からは死角になっている上に、牟礼や高松から火の手が上が るのを見て、見えない敵に恐怖心が増したわけです。 だから、急いで海上に逃れたわけです。

回答No.5

屋島の扇の的ですね。 平家の男の舞はいわば神事的な儀式です。 「敵ながら天晴れ!」と言うよりも目のあたりにした「奇跡」を神に感謝ですね。 源氏側は「知らなかった」ように読み取れますが、義経は知っていてあえて「殺させた」ように感じます。 その前に義経は腹心である佐藤継信を失っています。 悲しみが深すぎてマトモな判断が出来ていたか分かりません。 与一への命令は義経本人からではなく伊勢義盛が伝えました。 実の所、「平家物語」は実際の「屋島の戦い」から約100年後に描かれた物語なので、「扇の的」のエピソードはフィクションである説もあります。 そして与一も架空人物の説もあります。 平家の雅さと関東武士の野蛮さを表現するために作られたエピソードかも知れません。 そもそも「平家物語」は軍記物語で史実を元にしたフィクションかと。 「平家物語」で書かれたことを「史実」として伝わっていることも結構あるようです。 当時の日記とは異なる箇所が多く、印象操作もかなりありますね。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.4

>この舞踊りに来た男についてどう思いますか? 源平屋島の合戦ですね。 この平家側の武士は「与一に対して、称賛の意」を表したのです。 揺れる舟にある扇の的を打つとは!あっぱれ! これは何も、源平だけの物語ではありません。 五稜郭の戦いでも、新政府軍は「北海道共和国首脳陣」の戦いを褒めていますよね。 犯罪者としてでなく、新政府の首脳人として迎えています。 高校野球でも、敗者側の応援団は「勝者側の戦いにエールを送る」のが一般的になっていますよね。 この事は、海外ではあり得ない行動なんです。 プロサッカーでも、敗者側は勝者側の選手に称賛します。 同じ事だと思いますね。 ただ、常識を知らなかった義経が上司だった事が不運の始まり。 義経が平家に連戦連勝だったのは、ゲリラ戦術を用いたからです。 当時としては「卑怯な戦い方法」でした。 壇ノ浦の戦いでも、卑怯な戦いで勝利しました。 当時は、「非戦闘員は、攻撃しない」という不文律がありました。 が、義経は水夫・船頭を先に殺害してから平家側兵士を殺害しています。 操船が出来ない平家側兵士は、戦うことなく戦死。 話がそれましたが、以降の与一の生涯は悲惨です。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率64% (1057/1649)
回答No.3

安易に出てきたというより、ある程度覚悟のうえだったのでは? 与一が矢を取って射撃の動作に入っていることは、踊っている最中にも見えたでしょうし、与一との距離は70mくらいあった(七段ばかりはあるらむ)そうですから、避けようと思えば避けられたのではないかと思います。 敢えて避けようとしなかったのは、与一が射損ねるほうに賭けたということではないでしょうか? もともと失敗させて自軍の士気を上げ、敵軍の士気を下げようというのが狙いだったのでしょうから、見事に扇を射抜かれて終わりでは意味がありません。最初から挑発の意図で踊りだしたのではないかもしれませんが、与一が射撃動作に入ったのを見た時点で、これが失敗すれば「動かぬ的にしか当てられないのか」と侮辱できるという計算はあったと思います。

  • 5555www
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回答No.2

平家物語の一部なんですが、これについてどう思いますか?……「平家物語に限りませんし、すべて」とは言いませんが、「創作も多い」と思います。その「創作」から何を読み解くか、どう理解して、どう生かすかは、それぞれだと思いますし、それでいいと思います。 この舞踊りに来た男についてどう思いますか?……平家と源氏の意地と維持とのぶつかり合いの中で、「武士の時代(新しい時代)の始まりを表現しようとしたのかも」という気がします。 それを称えようと踊ったのに殺されて可哀想だと思いますか? それとも戦場なのに安易に出てきたバツだと思いますか?……時代の変化を比喩的に表現したのだと思います。だから「可哀想だ」とか「バツだ」とかということではないと思います。 ご質問を読ませていただいて考えたのは、時代が変わるときには、私のような凡人には、よく理解できないこととか見過ごしそうな何かが起こっている、あるいは起こる、ということを示唆しているのではないか???と感じました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.1

いかにも義経らしいエピソードだと思いますね。 昔は「悲劇の二枚目」という扱いだった義経は、近年ではサイコパスキャラだったというのが有力になっています。「火の鳥」などちょいちょいそういうキャラのときがありますけどね。 大河の「鎌倉殿の13人」でも、戦さに異常に興奮するヤバいやつというキャラで菅田将暉さんが怪演していましたね。 海賊黒ひげのモデルになった実在の海賊エドワード・ティーチは、あるとき宴の最中で突然に銃を抜いて近くにいた部下の足を撃ち抜いたそうです。なんでそんなことをするんだと周囲に聞かれて「たまにはこういうことをしねぇと、お前らは俺がどういう奴か忘れちまうだろうがよ」といったといいます。 それみたいな感じの、「平家はよ、全員殺しちまえばいいんだよ」的なヤバいエピソードだと思いますね。 ただ、平家の側とすれば「義経ってやつは話が通じないからヤバい。そして坂東武者ってやっぱりバーサーカーだ。文明人じゃない」って戦慄したと思いますから、宣伝効果は抜群だったと思います。「坂東武者をうっかり挑発すると、倍返しされる」ってね。