• ベストアンサー

アイスマンの斧について

アルプスで見つかった5000年前の「アイスマン」が、精密な作りの銅製の斧を持っていたことに驚いております。今でも、これと同じ斧を作れ、と言われても一般の人には難しいと思います。それだけの技術が既にあの地域にあったというのは、ただ、たど驚きなのですが、あの程度の銅製品が中国や日本で作られるようになるのは、西暦何年くらいからになるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11077/34523)
回答No.3

♯2です。書き忘れたことが。 青銅器といえば有名なのが中国の最初の王朝といわれる殷文明です。約3700年前くらい。 その殷王朝遺跡からは、なんと800キロを超える重さの青銅器(后母戊鼎)が発見されています。これは世界でも最も大きくて重い青銅器になりますが、実はこれと同じものを我々現代人は作れないのだそうです。 そんな重くて大きなものを青銅で作ろうとしたら、冷却がうまくいかずに割れてしまうそうですよ。つまり、殷文明の青銅技術はロストテクノロジーなんですね。 世界ふしぎ発見。

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。現状の中国は、とても褒める気にはなれませんが、紙や火薬といい、その青銅器といい、確かに、世界史の上で大きな役割を果たしたのは事実みたいですね。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11077/34523)
回答No.4

>インカ?の水晶ドクロとか… あれは残念ながら近年捏造であることが確定しました。機械による加工の跡が見つかったそうです。 とはいえ中米、南米遺跡には謎が多いですけどね。私が好きなのは、ペルーにあるインカ帝国が作ったものと思われる用水路です。 途中で、岩盤に水を通すための小さな穴が掘られているのです。人も入れないような小さな穴が推定で何十メートルも掘られている。どうやって掘ったのかまるで想像もできないのです。あまりにどうやって作ったのか分からないので、ほぼその存在を無視して見なかったことにしているという・笑。 あとね、同じくペルーの山の中にカラヒヤ遺跡ってのがあるのです。断崖絶壁のヘコミの部分に、トーテムポールや棺が置かれているのです。 この遺跡、ものすごく高い場所の断崖絶壁にあるので下から足場を組むことができないし、崖の形がえぐれているので、上から降ろすこともできないのです。つまり、どうやってそこに棺などを持ち込んだのかがサッパリ分からない。もちろん現代でも無理。調査のためにトーテムポールを持ち出すこともできないんです。 だからいつどこで誰がそんなものを作ったのかサッパリ分からないというね。最近人工衛星からの写真でナスカの地上絵で新しい絵が見つかったともいいますし(あまりに大きすぎて宇宙から見ないと気づかなかったそうです)、ペルーは宇宙人の匂いがプンプンしますね・笑。

tahhzan
質問者

お礼

そんな遺跡があるんですね。まだまだ不思議な世界があるみたいですね。また、機会があれば教えてください。ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11077/34523)
回答No.2

中国で発見されている範囲では、ほぼ同時代の4000~5000年前の黄河の龍山文化で青銅器が発見されているそうです。 青銅は合金ですので、火を使って加工する必要があります。青銅の前に銅の時代があったはずですが、まだ見つかっていないのかな? 長江文明では、1986年に三星堆遺跡というのが発見されました。4000年か、それ以上前だそうです。三星堆遺跡からも青銅器がザクザク出てきましたが、吊り目で目玉がギャグマンガのようにビヨーンと飛び出る前衛的な作品で世界を驚かせました。これも青銅なので、それ以前に銅器の時代があったはずです。 中国ではもっと古い時代に集落と城塞が見つかっていますから、当時中国に住んでいた人々の間では日常的に戦争があったようです。また、絹製品が発掘しているので、養蚕は既に行われていたようです。 「日本ははるかに遅れていた」と思うかもしれませんが、青森県の大平山元遺跡から土器の破片が見つかりました。少なくとも約1万1000年前。1万3000年前の可能性もあるそうです。 現在、発見された中ではアジアではもちろん最古の土器であり、世界的に見てもほぼ最古レベルの土器です。もしかしたら、世界で初めて土器を作ったのは日本かもしれません。 そのアイスマンが生きていた頃が日本では縄文時代中期にあたり、この時代の代表的な土器があの燃えさかる炎を表現したと思われる火焔型土器ですね。縄文「中期」であることを改めてプッシュしたいと思います。 あの三内丸山遺跡はアイスマンより2000年くらい前から存在したと思われます。 インドやパキスタンの辺りにはあのインダス文明があって、あのモヘンジョダロ遺跡は4000年前頃ではないかといわれています。最盛期の人口は4万人(!)という説もあります。ハラッパー遺跡はもっと古いです。 しかしインドはまだそういう遺跡発掘に手が回るほど豊かな国になっておらず、イスラム国家のパキスタンに至っては自国の文明なのにイスラム教以前の時代には無関心らしくてインダス文明の調査研究はほとんど進んでいません。 特にモヘンジョダロ遺跡は、忽然と極めて高度な文明が出てきている(アイスマンや縄文時代に下水が完備された万人単位の住民が住む大都市があったと想像できますか?)ので非常に興味深いのですが、食いつくのは物好きな外国人ばかりみたいです・笑。 また南米大陸では4000~5000年前くらいの銅製品が見つかっているそうです。 かように、世界にはまだまだ不思議がいっぱいあるのであります。「いつどこで『文明』が始まったのか」は謎が深まるばかりです。

tahhzan
質問者

お礼

凄いですね。自分が考えていたより、はるか前に人類は知恵を使って色んなものを作っていたんですね。ただ、ただ、驚くばかりです。本当に昔の人は、エラかったですね(笑) それと、たまにとんでもないものも作ってますよね。インカ?の水晶ドクロとか… ちなみに、自分は、米を食べる目的に採集する事を発見した人と、自転車を発明した人には、個人的にノーベル賞を100個あげたい気持ちです(笑) ありがとうございました。

回答No.1

銅は非常に加工し易いものですので、日本でも紀元前から用いられていた筈です。 銅鐸なんて大掛かりなものが BC2C には作られていますし…… 但し、日本では銅を精錬加工する技術が鉄器の精錬加工技術とほぼ同時期に伝来した事から青銅器時代というものがなく、斧や剣、或いは鏡のような実用品を金属で作るようになったのは弥生時代 (死語かな(^^;)) 後期の事で、それ以前は銅鐸のような祭事品、装飾品或いは装飾品 (勾玉) を作る際の砥石のようなものにしか利用されなかったようです。 また、日本は温暖湿潤気候の地ですので破棄された金属器がそのままの形で残る事が難しく、百済が倭に献上した七枝刀は勿論、銅剣や鉄剣も錆で膨らんでしまって原型を止めないものになっていますね。 Iceman の銅斧は厳寒乾燥地の Alps だからこそ腐食が進まずに残されていたものであり、腐食して土に帰らなければ日本でも数千年前から同製品があったと証明できるのでしょうが、残念ながら日本では BC3C 以前の金属遺品は未だに発見されていません。 銅の融点は 1000℃ぐらいですが、融点 240℃ の錫や融点 330℃ の鉛を石で囲った炉の中で溶かし、鞴のようなもの風を送り込んで盛大に薪を燃やす事で炉内温度を 700℃ ぐらいに高めてやれば溶けた錫鉛合金に銅が溶けて青銅になります。 銅は溶かさなくても石で叩けば変形しますので、孔の開いた銅鍋は叩いて孔を塞ぎますし、銅を叩いて作る彫金装飾品は沢山ありますよね。 叩く前の青銅塊は錫鉛に銅を溶かして作り、出来上がった青銅塊を再度溶かして炭をちょっと加え、冷める前に叩いて不純物を取り除けば彫金加工し易い高純度の青銅塊になるでしょう。 これを熱して融点の低い錫鉛を叩き出せば銅純度の高い硬質 (でも鉄よりは柔らかい) の鈍器が出来ますので、後は砥石で磨けば斧や剣のような武器が出来ます。……でも大量生産する場合は銅純度を高めた塊を溶かして鋳型に流し込むでしょうが……。 そんなわけで日本では BC3C 頃には青銅器鋳造技術が伝来しており、鉄器鋳造技術も紀元前頃には伝来しているようですね……緋川とか八幡 (八岐) とかの言葉は金属精錬に関係しているようですし。 中国では BC22C〜BC17C ぐらいが石器から青銅器への変遷期で、BC8C〜BC5C 頃に鉄器への変遷期を迎えるまで青銅器時代がありました。……日本は BC3C 頃から金属器が使われるようになったので明確な青銅器時代というものがありません。 素敵な考古学趣味を(^_^)/

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。日本は中国より2000年近く遅れていたんですね。また、溶かさなくても変形できる、といのも遅まきながら初めて知りました。それであっても、やはり、5000年も前に、あそこまでの製品を作り上げていることには、改めて、ヨーロッパの先進性を再確認しました。ありがとうございました。

関連するQ&A