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昔の人達はどうやって情報を得ていたのでしょうか
江戸時代ぐらいには情報を運ぶ仕事、今で言えば郵便配達?のようなことはできたみたいですけど なんとかの戦いが終わったとか、地方の農民は知る方法が無い気がしますが
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- oska2
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>江戸時代ぐらいには情報を運ぶ仕事、今で言えば郵便配達?のようなことはできたみたいです 飛脚・町飛脚などが、全国各地に荷物と一緒に情報も送っていました。 >なんとかの戦いが終わったとか、地方の農民は知る方法が無い気がします 案外、情報は早かった様ですよ。 江戸から大坂までは、約4日で届きました。 「士農工商」という呪文に騙されそうですが、当時の農民は活気があったのです。 社会の最下層に存在するとは、思っていません。 地域・全国各地の情報の共有があったので、「一揆」も多発したのです。 「〇〇国の〇〇で、一揆が起きた。代官所が襲われた様だ」 もちろん、正式なルート(代官⇒名主・庄屋⇒百姓⇒小作農)ではありませんがね。 村祭り・法事などでは、全国各地から商人・坊主が来ますよね。 ※法事の場合は、各宗派の本山経由で全国各地に伝わる。 この時に「ここだけの話。実は、〇〇が〇〇して〇〇になった」など話します。 「ここだけの話」は、多くの方が「他人に話したくなる」のが人情です。^^;
- 5555www
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ピントのずれた寝ぼけたような回答ですが、「目」と「耳」です。逆に言えば「目」で見えて、「耳」で聞こえるものが、「情報」だったのだと思います。その「目」と「耳」の機能を効率よく工夫したのが「情報の伝達」だと思います。そして、それは時代によっていろいろだと思います。 情報ですから、「より早く」、「より正確に」、「より秘密裏に」なんていうのが原則だったかも。その点では、今も昔も変わらないと思います。 たとえば、昔は「狼煙」なんて使っていたようですが、今は、核弾頭付きのミサイルが飛んで来たってどうなっているのかわかりゃしないし、ほんの50年前は、彼女に出した手紙の返事が待ち遠しかったのに、今では、スマホで、地球の裏側の恋人とでも……らしいです。 なんとかの戦いが終わったとか、地方の農民は知る方法が無い気がしますが……「知る必要がなかったかもしれない」という情報もあったのではないかという気がします。今は、情報が多すぎて、「何が起こっているのかわからない」し、情報が多すぎて「情報の中身が自分にとって必要なのかも判断できない」というだけのことだと思います。私のようなボケがそれです。
- eroero4649
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江戸時代には瓦版という新聞のようなものがありました。これは新聞であり、ゴシップ雑誌でもありました。 その情報の速さは並大抵ではなく、何か世間の人たちの注目を集めるような事件、例えば心中事件とかが起きると即発行されました。 そのスピードと情報網は恐るべきものです。こちらを見てください。 https://komonjyo.net/jyoukisen.html これはあの黒船来航を伝える瓦版です。発行は嘉永六年。即ち黒船が来航した年です。この瓦版にはなんと黒船の大きさや帆や大砲の数、蒸気で動くことなど細かいことがきちんと書かれています。 つまりもう当時にはどこかの知識人を当たれば「あれはね、蒸気船といって蒸気で外輪を回して動くことができる船だよ。あの大きさの船ならフレガット(フリゲート)級だね」とその細かい性能諸元を手に入れることができたのです。 そしてそれを発行すれば、人々は「へー、これが噂のあの黒船かー」と買い求めたのです。一説には、この黒船来航の瓦版が瓦版史上最大の大ヒットだったのではないかといわれています。そのくらい人々の関心を集めたのでしょう。黒船関係では、様々な瓦版が発行されています。 また歌舞伎もそういった時事ネタを即座に芝居にしました。今にそれが伝わる代表が「忠臣蔵」と「曾根崎心中」ですね。他に「極付幡随院長兵衛」や「め組の喧嘩」なんてのがあります。 話題になった事件を基にして芝居に仕立てたものですね。今なら「再現ドラマ」です。 現代でも東京で流行ったものが徐々に地方に伝わるように、時差を経て江戸や大阪で話題になったことが地方に伝わりました。 商人は「ビジネスは情報が命」と知っていますから、様々な情報網を持っていましたが、そうではない人たちにとっては情報が伝わるのはかなり時間がかかったでしょうね。それは今も昔も変わらないと思います。 だけど鎖国をしていても様々な情報収集手段はあって、幕末頃の知識階級はかなり海外情報に精通していましたね。もちろん、それはごく一部の「西洋かぶれ」の人たち限定でしたけどね。 けれど江戸時代の日本は当時としては異常なほど庶民の識字率が高かったので(女性向けゴシップ瓦版もありました。当時の女性の識字率は世界的には非常に低いものでした)情報の出回りは早かったですね。
- gunsin
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行商人、修行僧、一般の旅人。 宿場町でない所は、お寺や庄屋宅に宿泊していたので、住職や 庄屋さんには、情報が集まりました、これらを繋いだ、庶民なりの ネットワークが有りました。 農民監視の為に関所が有ったので、国を越えて伝わるのは、難しい のですが、それでも、工夫して伝わる様にしてました。 自分達の命や生活を守る為に、情報を得る事は必須の事なのです。 庶民を侮るなかれ、たくましいのです。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
瓦版というニューズレター、政府の広報は「お触れ」、お寺の坊さんは説教にニュースを混ぜます、政府の批判には「狂歌」「落首」、三味線や琵琶を弾いて、諸国をめぐる祭文語りや琵琶法師、結構あったようですよ。
- seibido
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飛脚と早馬、ですね。 日本って、意外と・・・というか、その時代の世界的に見てトップで(文字通り)一般市民の文盲率って高かったんですよ。 江戸時代・・・17~19世紀で、文盲率は5割を切ってたんじゃないかなぁ。合衆国の独立が1776年、フランス革命のバスティーユ襲撃が1789年ですよ?関が原の戦いは1600年でしょう? なぜ、日本人が読み書き計算ができたのか・・・教えられた・学べたのか。 それは、日本が農耕民族だったから。読み書き計算ができないと、年貢をちょろまかされたから。だから、小作農でも四則計算と仮名の読み書き程度はできた。 誰に教わったか。それは、寺の坊主に教わった。 なぜ寺なのか。寺で、その集落の人員構成を把握してた・・・戸籍のようなものがあった・・・から。「じゃないと、大店が年貢の計算をする事ができない」から。菩提寺が、「誰某の家のババァが死んだ」から「誰某の家に赤子が生まれた」まで把握してたんですよ。 明治維新の時、海外から来た開拓船の提督が江戸城に向う途中、街道沿いに出された触書きを町民が読んで理解しているのを見て驚いた、それで戦略を侵略から切り替えた。 日本史で習ってないかなぁ。 街道は、すでに15世紀には整ってたでしょ?それを使って、江戸時代に五街道を主要街道として整備しなおして、地方大名に参勤交代をさせてたんですから。 まだ合衆国は建国されずネイティブを追いまわして占領、フランスは貴族が優雅な平民が貧相な生活を当たり前にしていた時代です。 街道が整備されていれば、情報は・・・必要な情報は各地に伝わります。 忠臣蔵(そのものは劇ですが、事件はあった)、知りません?14日に江戸城で事件を起こして、19日には兵庫の赤穂に情報が伝わってるんですよ?で、その日の内には藩内の農民にすら「殿が変わる」と伝わってるんです。 16~19世紀の日本って、部分的には世界の最先端ですよ。
- cap55
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地方の農民に情報は殆ど入りません。 入るのは人伝、行政からは御触れという事になります。 その御触れも字が読めないので、結局は人伝という事になります。
- AsarKingChang
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読売新聞じゃなく、読売じゃないかな。 読む物を売ると言う文化があったと聞いてます。 (当然、その時代にいる人しかわかりませんがね) それが今でいう、新聞になった。 というのが、当時のニュース報道???? に一番近い文化に感じます。
- aeromakki
- ベストアンサー率36% (870/2378)
江戸時代になってしばらくすると、物語を書かれた本(和綴じのアレですね)と瓦版が普及しました。 それ以前はやはり飛脚等でしょう。 https://tyanbara.org/business/sengoku-history/2017101625025/