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学問をするのにふさわしい人がやっていたのは

教育問題かもしれませんが、歴史のほうにかかる範囲が広いと思ったので質問します。 日本史上(あえて世界史上でもかまいませんが)、一番「学問すべき人が学問していた」時代はいつなのでしょうか。 古代からみてきますと、おそらく江戸時代までは、庶民に対して学問の風はかからなかったでしょう。 江戸時代の生産安定性の時代に入ってようやく、寺子屋などの庶民的学問機関ができた。しかし、士農工商で武士がやるような思想とか洋学などは円がなかったでしょう。しかし、武士が学問する慣わしといいますが、ふさわしい人が多かったか?中にはまったく向かないのに学問の強制を強いられた人もいた。農民商人に、遠大な思想史や科学洋学などをやるにふさわしい人物が多く埋もれていたかもしれない。 明治からは、身分廃止とともに、金さえあれば?やりたい学問ができるようになった。農民が大臣になることもできた。この時代が一番公正だった気がします。 戦後から現代まで、だんだん学問は衰退し、庶民的?になり、ふさわしくない人が点数を効率よく取るための教育が隆盛している。そんなところでしょうか? 一体いつが一番「ふさわしい人」が勉強していたんでしょうか。

みんなの回答

  • tryouts
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回答No.3

日本では江戸末期から明治にかけてだと思っています。 武士であればと言う条件は付くものの、昌平坂や蕃書調所には浪人や足軽の師弟でも入所出来、また極めて優秀であれば寮費も無料などと、能力のあるものを多数発掘していきました。 諸藩から国内留学してくるメンバーは、各藩校の主席・次席と言った顔ぶれで、各藩が多額の資金を投じて送り出すことになっていたため、出てくるメンバーは藩の期待を一心に背負い、現在の学生の比ではない熱意で学問に取り組んでいました。 その中でも優秀だった者たちは、幕府や各藩の資金で欧米の大学や士官学校に公費留学しています。 時代が時代であったため、公費留学を行うメンバーは日本の期待を背負ってることを自認、他認しており、一人で多数の学士を得たり、主席卒業で日本に戻り、日本に戻ってからは元の身分に関わらず出世していっています。 期待に添えないようでなければ切腹と思っていたので、今と比べること自体無理がありますね^^; また江戸後期では、一部の藩校では武家ではない庶民であっても優秀な人材を受入れ、江戸末期になるに従いこの傾向は強くなっていきます。 つまり優秀であれば勉強する機会を与えられていたのです。 非支配階級で優秀だった者は、武家の養子入りをし、更に上級の学校を目指すなどもありました。 私塾から留学と言うパターンも多く有り、この代表とすれば、初代総理大臣の伊藤博文(農民で武士に養子入り、イギリス留学)などの例もあります。 また昌平坂の教授方にも商人出身もおり、武家でなくても学ぶチャンスのあった時代と言えます。

  • eroero1919
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回答No.2

>まったく向かないのに学問の強制を強いられた人 これは今も同じことでしょう。親が医者というだけで医者になることを強要されたり、親が会社社長だから二代目社長、親が政治家だから政治家、など枚挙にいとまがありません。 京都の老舗料亭の家に生まれたら本人に料理人のセンスがあろうがなかろうが後を継がねばなりませんし、華道や日本舞踊の家元の家なんぞに生まれたひにゃあ大変です。俺、日本舞踊よりヒップホップダンスがいいなあ、なんて自由はなかったりします。 ただ、職業選択の自由がある現代に比べれば江戸時代以前はそういった自由はほとんどなかったわけですから、まあ「センスがないのに強要された」例は多かったことは多かったでしょう。 とはいえ、身分制度に厳しかった江戸時代といえども、身分が低くても立身した人物はいます。最上徳内なんかそうですし、あの伊能忠敬は50を過ぎて本格的に測量を学んであの素晴らしい地図を残しました。またジョン万次郎は漁師の子でありながら異国の地で学問を修め、幕末に大きな影響を与えました。それはただ単に彼が「英語がしゃべれた」だけではなく教養が高かったからです。 彼らに共通しているのは「向上心が高く、非常に努力した」ということです。ジョン万次郎と一緒に漂流して共に帰国した人たちはいますが彼らは歴史に名を残していません。彼らはアメリカの学校で学ぶことはしなかったから、「単なる漂流民」で終ったんですね。 明治になって農民が大臣にもなれるようになったといいますが、そういった人たちは幕末の志士だったからですよね。別に明治になってから急に身分制度がなくなり、農民の中から公正で公平な手段によって大臣を選んだわけではありません。平民が民主的なシステムによって立身するには「平民宰相」原敬の登場まで待たねばなりませんでした。私の祖母は明治生まれですが、小学校の卒業証書にはちゃんと「士族」と書かれていたそうですよ。 >戦後から現代まで、だんだん学問は衰退し さて、そう判断される根拠はなんでしょうか?どの学問の分野であれ、世界的に評価される学者はむしろ戦後が多いと思いますがどうでしょうか。戦後、日本は工業国として世界史でもまれな成長をしました。工業国となるには、優秀なエンジニア(技術者)が多く必要です。そして優秀なエンジニアの育成にはちゃんとした教育システムが欠かせません。文字が読めなければ設計図が読めないですし、計算が出来なきゃ設計図が作れません。 私の世代は管理教育全盛の時代でした。当時は、今のように手取り足取り教えてくれるなんて皆無です。いわゆる受験戦争もピークの時代でしたからみんな心の中では「なんで勉強しなきゃならないんだろう」と思ってはいても、そんなことをいっても誰も相手にしてくれませんでしたし、それで勉強をサボれば容赦なく落ちこぼれとなりました。 今は、鉄棒で逆上がりが出来ない子には色々道具を使ったりして手取り足取り教えてくれるらしいですね。私たちの頃は「出来るまでやってろ」でした。今の「ゆとり教育」に問題は多々あるとは思いますが、あの管理教育が優れた教育システムであったとも思いません。 理想の社会(ユートピア)が存在しないように理想の教育システムというのも夢の世界のことなのかもしれません。 ただ、本人の努力で出世できる「学歴社会」はある意味平等なシステムといえるでしょうね。その学歴を手に入れるためにお金がかかるとかそういった現実的な問題は置いておいて。

回答No.1

現在では、「勉強する」ということをを「学問をする」とは言いませんね。 「学問をする」という言葉に実質的意味があったのは、江戸時代まででしょうね。 すなわち、「学問をする」ということは、要するに「四書五経」を勉強するとうことで、とりもなおさず、これは、体制のための理論武装を学ぶということですね。現在では、どの国も、民主国家であり法治国家ですので、 「四書五経」を学ぶことは意味がありません。 従って「学問をする」は死語です。 以上のようなことは無視して 「学問をする」を単純に「勉強する」という意味にとらえても 「ふさわしい」という意味がいまいちわかりませんな。 「才能のある人」という意味なのですか、 才能がなくても勉強してもいいと思いますが。

noname#32495
質問者

補足

「ふさわしい」というのは、私なりの解釈で、いわば「点取り虫でない姿勢」とでもいいましょうか。例えば「~的中問題」とかいうものは俗悪で、むしろそれ以外の「不的中問題」のほうに興味を示すとか、純粋な好奇心が旺盛ということです。向学心、好奇心それらが、目的論的でなく、無目的であっても、惹かれる素質があるかですね。これには、IQなどというものは、直接的創刊はないと思います。

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