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日本史についてですが、
日本史についてですが、 江戸時代末期、農民にも貨幣が流通しはじめたころ、 農民が納める年貢の量が低下したのはなぜですか? 日本史に詳しい方、お願いします!
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>農民が納める年貢の量が低下したのはなぜですか? 年貢を計算するときのベースになるのは、実際の生産量ではなく、「この土地なら、これだけの米が取れるだろう」という想定上の生産量です。この想定生産量は江戸時代初期の生産量をベースに算出されたものです。 その後、平和な時代が続くと、農業技術が向上し新田開発や用水などの基盤整備も進んだことから、農業生産は飛躍的に伸びましたが、全国のほとんどの地域で、この伸びが年貢高の計算に反映されることはありませんでした。領主は反映させたかったようですが、農民の反対が強く実施できなかったのです。ですから、 「四公六民」や「五公五民」は表向きで、実際の賦課率はもっと低かったことになります。 また、雪国でもない限り、農民は裏作として麦を作りますが、裏作から年貢は取らないというのが江戸時代の不文律でした。ほかにも、農民は、養蚕や機織りをしたり、農閑期には出稼ぎに出たり、町地へ野菜を売りにいったり、草鞋や筵を編んで売ったり、様々な方法で現金収入を得ていましたが、これらは非課税でしたから(もちろん例外的に課税する領主もいましたが)、総収入に対する賦課率はさらに低下します。 さらに、年貢を納める相手は、土地をもっている自作農民なら、村名主を通じて領主に納めます。土地を持たない小作農民の場合、領主に年貢を納める義務はありません。この場合、「年貢」というのは、地主が領主に納めるべき年貢を地代というかたちで負担しているという意味です。たいていの地主は領主に納める分よりは多くの地代を徴収するでしょうから、差額が地主の収入になります。 従って、年貢の量が低下したのではなく、年貢は決められた通りに収めるが、農民にとっての副産物が比重を占めるようになっただけです。
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- townsx10
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物納は必ず労働を伴いますが、貨幣は労働しなくても手に入るからです。 だから士農工商なんじゃないでしょうか 貨幣が幾ら流通しても、品物が無ければ豊かにはなりません 日本の大幅な赤字の原因はそこに有ると思います 親は子供が可愛いいのはいつの時代も一緒で、多くの人間が約束された将来を希望する為に労働と生産が減って大幅な赤字を作り出すんです またそのような受け入れ先を仲介しているのが、日本の政党でそれによって権力を維持しています 日本はでたらめな国と思って下さい
- tanuki4u
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徴税の費用対効果の問題と産業構造の変化です。 検見法によって、毎年現地に行って、税額を決めるより、現地を見ないで決まった額をもらったほうが、徴税側のコストは掛かりません。これが定免法。 徴税コストが減った分どうしたか? 単に楽していたのではなく、専売による「年貢」以外の部分にシフトします。 最近の例で言えば、人間ひとりひとりを押さえて、住民税を徴収するより、流通機関なの法人の売上から消費税を徴収したほうが、徴税コストは安い。対象の件数が違いますから。 価格が相対的に安くなったコメを年貢で頑張るより、商品経済の進展を前提にした専売の方が、効率が良くなったわけです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E5%A3%B2%E5%88%B6
- townsx10
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今の日本みたいに虚業が増えたから
お礼
でも、もしそれが本当なら、 武士の収入が減って幕府が揺らぐことはないんじゃないですか?