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江戸時代の米の消費について

 江戸時代の農民は、全体の8割程度だったといいます。その農民は、あまり米が食べられなかったといいますが、もしそうなると、農民が生産した米を残りの2割の人口で消費していたんでしょうか。江戸時代の米は、貨幣としての役割もあったといいますが、何れは消費しないといけないはずです。そのへんが、どうも納得いかないので、どなたかお分かりになるかがいらっしゃれば、ぜひ教えてください。

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  • aster
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回答No.4

  >それは、「江戸末期になるまで、農民は貨幣などとは無縁」だったということです。 わたしは、そんなに詳しい訳ではないのですが、先の書き方が悪かったように思えます。農民は「自給自足」を目指していたというか、貨幣経済に巻き込まれると、破滅する危険性があったので、できれば避けていたということで、あまり、貨幣経済との関係を強調しない方がよいと思ったのです。 江戸幕府当初の経済システムは、米本位制とも云えるシステムで、質実剛健・自給自足が原則となっていました。しかし、文化の展開や都市部の繁栄、都市人口の増大や生活の豊かさの志向が、自給自足ではなく、「広い意味の贅沢品」の消費を促進させ、商業の繁栄が進展して、幕府当初の経済システムは破綻します。 織田信長は商品経済を活性化し、同じ頃に堺商人は海外貿易を行い、経済的に日本は、貨幣経済、商業繁栄国家としての道を進みかけていたのですが、豊臣秀吉はカトリックの思想的根拠を知り、日本がキリスト教化することは危険であると判断し、キリスト教禁令を出します。 徳川家康は、海外交易にも熱心で、色々と利益もあげたのですが、自己の天下となり、幕府を開くとなると、徳川家の支配安定のため、農業中心の自給自足経済でなければ、幕府は破綻することを予見していました。 江戸幕府成立まで、日本は海外に開かれ、積極的に、使節をローマに派遣したり、ポルトガル人、オランダ人が仲介利益を上げていた、中国等との交易でも、みずから直接に交易する方向に進んでいたのが、江戸幕府成立により、一挙に、状況が変化します。 イエズス会本部に送られた報告書のなかで、日本派遣の宣教師が、日本が短期間のあいだに、こうも急速に変化するとは信じられない、というような言葉があるそうですが、さもありなんです。西欧人を除くと、世界でもっとも優れた民族が日本人だなどと、褒めていたのですから。 江戸幕府は時代に逆行しようとした訳で、鎖国を敷き、日本国内でも、藩と藩のあいだで境界を作り、箱根の関所を設け、藩自身にも国内鎖国することを求め、商人階級の活動や力を押さえようとしました。 しかし、家康から100年後の五代将軍綱吉の治世になると、「元禄文化」が成立し、江戸、大阪、京都などの大都市を中心に、奢侈品や贅沢品を大量に消費し、戦国の世が去った太平のなかで、商人の活動が著しくなり、大都市庶民レベルでも、生活の豊かさの幅が大きくなりました。 貨幣経済は、戦国時代から、農民のあいだで、ある程度基礎があり、一向一揆や島原の乱のような宗教内乱では、農民が武器を購入していたということもあります。 幕府当初の経済システムは、無理に強制したものですが、このシステムは100年後の元禄文化で、矛盾が出てきて、更にその半世紀後の八代将軍吉宗の時代になると、諸藩の統治者も武士階級も、ほとんどが経済的破綻し、江戸幕府の経済システムは破綻します。 藩の自給自足制が機能すれば、こういうことにならないのですが、参勤交代制を敷き、江戸詰の各藩の武士が多くあり、藩主とその側近も定期的に江戸と国許を往復させる制度は、大名の力を削ぐに効果がありましたが、参勤交代の道中費用を、街道沿いの商人にばら撒くことになり、また、江戸文化を知った武士も藩主も、或る意味で「広義の贅沢さ・生活の豊かさ」に慣れ、商人から様様な物品を購入しないでは、生活に満足ができないような状態になったのです。 江戸文化は、武士が江戸と国許をある程度定期的往復する結果、全国の藩にも伝えられることになり、江戸や京や大阪の事件や流行などが、時間的に幾らか遅れても、結果的に全国の隅々まで伝わってしまうということになります。 天災や藩の治世の悪さから国を捨てた農民は、途中で餓死することもあったでしょうが、江戸などの大都市に集まり、何々無宿であるとか、また江戸では必要とされた労働力の供給源ともなりえたのです。 武士が商人と取引するには、米を貨幣または物品に交換するしかないのですが、年貢昧を米商人に売って貨幣を得て、それによって、諸般の物品購入に当てるようになります。自給自足で、準物々交換で必要な物品(例えば、山国の藩なら、塩とか干魚などは輸入しなければなりません)を入手していれば,貨幣は必要ないのですが、日本の社会は、そういう段階ではなかったので、江戸幕府開設において、時代を逆行させようとしても、参勤交代などの制度自体から、当初のシステムが崩れてくることになったのです。 吉宗は「米将軍」などと呼ばれましたが、紀州藩主の時代、倹約を励行させ、みずからその範を示し、絹の衣類などは身につけないようにし、また新田開発に力を入れ、紀州藩の特産の換金商品作物・工芸品などを農家が作ることを奨励し、出費を押さえ、貨幣収入を増やすという方法で、赤字であった紀州藩の財政を立て直して名君の噂が高かったのです。 紀州だけでなく、全国の藩で、換金作物・換金工芸品・藩の特産物の生産を、藩庁みずから推奨し、一応、藩がこれらの換金商品を買い上げることになっていましたが、直接商人に売った方が利益は高い訳で、農民と商人のあいだの直接取引きもあったはずで、例えば、紀伊国屋文左衛門などは、紀州特産の温州蜜柑を農民から購入し、江戸へと迅速に配送することで、巨大な利益を得た商人の代表です。 将軍となった吉宗は、商人の力を押さえ、奢侈品を禁止し、江戸城に倹約の方針を持ち込み、尚武の気風を回復して、武士を支配者として、禁欲的・質実剛健なものへと鍛え直すことなどを試み、また、合理的政策を施行しようと、色々と工夫し、「改革」を実行に移しましたが、紀州藩財政建て直しそのものが、換金商品の生産による利益を藩財政収入とした訳で、半分貨幣経済を利用しつつ、あとの半分で商人や貨幣経済を否定して、自給自足を回復というのは矛盾している訳です。 その結果、吉宗の改革は失敗に終わります。吉宗の改革失敗の後で、江戸城の紀州藩勢力の支持で老中に昇った田沼意次は、貨幣経済を否定しても否定しがたいのが社会の現状だと把握し(田沼が、名家出身でも、大名出身でもなく、成り上がりであったので、新しい発想が可能だったのですし、田沼なら、という期待も商人や庶民にはあったと言えるのです)、逆に、貨幣経済を利用して、幕府財政を立て直し、幕府の経済システムも立て直そうという構想で政策を実行に移します。 しかし、商人の地位を妥当に評価する田沼の政策や方針は、武士の特権性を意識する武士団や、反紀州勢力の江戸城武士団や譜代大名などから反発を招きます。田沼は志半ばで失脚し、その後を受けて、英邁と噂された白川藩主が老中首座となり、「改革」を行いますが、見事に失敗します。 以上、長々と書いて来ましたが、こういう経過を見ると、農民が貨幣経済と無縁であったなどということはありえないことになります。藩内財政に行き詰まった藩庁は、幕府の許可を得て、「藩札」を発行しますが、この事実だけでも、貨幣経済は、江戸、京、大阪などの大都市だけでなく、地方に確実に広まっていたことが分かります。 貨幣経済の浸透というのは、どの水準の話かという問題になります。江戸中期には、藩も武士も大商人に借金して首が回らないという状況でした。吉宗が藩主となった紀州藩も、借金でどうしようもない状態だったので、吉宗の藩政改革で、借金をすべて返し、逆に、備蓄金を持つまでになったのです。 江戸中期には、農村の次男三男などは、江戸などに出て,自分の未来を開くことを考え、実行しました。大都市の商店では、地方の農民の子女を見習として多く、雇い入れました。また「茶を飲む女は離別せよ」などと江戸幕府は言っていましたが、茶を飲むどころでなく、平均クラスの農民で、そう頻繁でなくとも、どぶろく以外に、清酒などを飲む機会も結構あったのです。江戸中期以降は、伊勢参りなども盛んになり、旅をするに、どうしても金子が必要ですから、農民も貨幣を手に入れていたことになります。 しかし、あくまで農家の「自給自足」という原則はあったということです。二宮尊徳の農村立て直しでも、目標とするのは、借金の解消と、「自給自足」の確立です。この場合、自給自足のなかに貨幣経済が入って来るのはどうしようもないことです。疲弊した村は、少女などの人を売り、商人から借金して、身動きがつかなくなるのです。それは、紀州藩の陥った状態と同じだとも云えます。 尊徳は、村の状態を綿密に調査・計算し(商人的計算です)、立て直し不能と計算で出た村は、幾ら依頼を受けても立て直しを引きうけませんでした。尊徳が立て直しを引き受けた村は、尊徳の指導に従う限り、計算的には、必ず立て直る村だったのです。 しかし、尊徳の発想は、「立て直し」であり、村を「元に戻す」ということです。これは、村の「自給自足」の回復という意味になります。自給自足と云っても、別の土地から入手しないと、その土地にはない不可欠物品もある訳で、最低限の交換、貨幣経済は認めても、それには限度があるというのが尊徳の発想です。 貨幣経済は、江戸中期には、農村にすでに浸透しており、元禄文化の時代にすでにそうだったかも知れませんが、それでも、「自給自足」の原則はあったということです。農家の自給自足の考えは、明治・大正でも残っています。この原則に懐疑が出て来たのが、江戸末期ではないかという意味で、江戸末期ということを考えたのですが、確かに、江戸時代を通じて、農村に貨幣経済が浸透していなかったということは妥当ではないと思います。  

izumokun
質問者

お礼

 asterさん、大変詳しいご回答をしていただき、誠にありがとうございました。実は、私は中学校の社会科の教員をしておりますが、大学では古代末期~中世を専攻していました。  そういうこともあって、近世史にはほとんど疎く、史実関係を明らかにする文献の所在については、まったく知りません。しかしながら、asterさんのご説明で得心しました。一般人と称されるasterが詳しく、中学校の教員をしている私が無知であることを恥じ入っております。

その他の回答 (3)

  • cotiku
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回答No.3

(記憶で書きますので正確な情報ではありません。) 北海道で米が生産できるようになったのは昭和に入ってからと思います。寒冷地に強いように品種改良された「農林1号」だったかと。 水田を作るには水が充分になければならないので、平野でも用水がうまく引けていることが条件になります。山間部でも水利のよい土地は水田になります。 そこで水田にできない土地は畑にして、穀物としてはおもに粟を作りました。陸稲もあります。 ほかに稗もありますがこれは飢饉対策で、保存は70年ほど可能。 蕎麦は寒冷地でもやせ地でもできます。しかも収穫までの日数が短い。 水田は江戸時代にはまだ1毛作(1年に1回収穫)で、畑は2毛作(冬場は麦などを作る)でした。 米ばかり食べていたのは江戸の人で、それ以外は雑穀を沢山混ぜて食べました。米ばかり食べると脚気になってこれを「江戸わずらい」と呼んだそうで、参勤交代で国許に帰ると自然に治りました。 農民とはいっても穀物と野菜ばかり作っていたのではなく、染物用の藍、日常器物用に竹、茶、果物、絹織物用の桑、綿織物用の綿とか紙用のコウゾや三椏のように山林で作るものなど藩の政策に従って特産の品種があり、結構多角経営でした。 平常は農民は自分で食べる米・粟を自分の小屋や蔵に保管して裕福な家は相当余分に持っていました。病気などで働きが悪かったり、地震で川の流れが変わるとか、天気が悪くて不作の時には裕福な家(庄屋とか)に借りにいったりしました。 税はしたがって米を基準に他の作物でも納められました。支配者の経営が下手な場合は年貢が高すぎて平生でも飢えていて、充分に働けず、そのために収穫が少なくて税収が減るという悪循環に陥りました。 こういう藩では不作の年には餓死者がでました。 藩では従って3年分ほどの米・粟・金を蓄えていることを理想としました。

izumokun
質問者

お礼

 詳しい説明のおかげで、江戸時代の農民の生活を、具体的にイメージとして描くことができました。それにしても、すごい記憶力ですね。  「支配者の経営が下手な場合は年貢が高すぎて平生でも飢えていて、充分に働けず、そのために収穫が少なくて税収が減るという悪循環に陥りました」という説明を読んで、すぐに想起されたのが島原・天草一揆です。  ま、このケースは支配者の経営が下手というよりも、幕府の大名に対する統制の厳しさが産んだものと理解していますが、時代が下るに連れ、藩の財政を立て直さんとして、年貢率を高くしていった藩もきっと多かったでしょうね。  たいへん勉強になりました。ありがとうございます。

  • aster
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回答No.2

  それは、別に実地に過去の数字を調べるまでもなく、社会の歴史で、中学校でも、「四公六民」とか「五公五民」,更に「六公四民」などという徴税の比率が明確に教えられていたはずです。 この「五公五民」というのは、収獲した米のうち、五割を領主が税として徴収し、残り五割が農民のものになるという意味です。確かに、農民でも、庄屋や富農などがいる一方で、小作人や貧農もいて、庄屋などが、更に,小作人から上前をはねる搾取をしていたというのはあります。 小作人でも、豊かな土地で、合理的な庄屋のもとにいて、かつ、広い面積を小作していれば、庄屋に納める、土地借り代としての米を納めても、なお、かなりの米が残ったでしょう。小作人だと、米ばかり食べるというのは無理でも、米五割とか三割に、麦とかその他雑穀などを食べていたというのが、当然考えられることです。 そもそも、雑穀はどこでできるのかという疑問が起こらないのが不思議です。雑穀ができるような面積があれば、米を作っていたでしょう。米ができないような痩せた土地などで、雑穀を植えていたのです。しかし、面積的に、雑穀などで、食べて行けるはずがないのです(収獲量が圧倒的に少ないからです)。 米が食べられず、雑穀や麦を食べていたというのは、貧しい小作人や貧農の話で、ある程度普通の小作人や自営農民や庄屋は、その豊かさにもよりますが、米を食べていたのが当然な話です。 江戸時代は、各藩独立採算制度で、隣の藩では、餓死者が千人規模で出ていても、その藩では、餓死者などいないというようなことが、江戸時代では,実際に起こりました。自然災害に弱く、貯蔵性が高くなく、また貯蔵するゆとりを持っていなかった一般農民は、不作や冷害にあうと、一挙に悲惨なことになったということがあります。藩の治世がよければ、まだ何とか蓄えで、農民を救えたでしょうが、藩財政も苦しくなって来た江戸中期では、餓死者が大勢でる飢饉が起こりました。 また、山間などの豊かでない土地の人たちは、米ができないので、米を食べることができなかったというような事情もあるでしょう。 しかし、最初に述べたように、米の収獲の100%を徴税として奪われるのなら、確かに農民に米はないでしょうが、そんなことはない訳で、では、農民に残った米はどうしたかというと、それは、翌年の種籾にする分もありますが、農民が食べたとしか、考える他ないでしょう。 江戸末期になるまで、農民は、貨幣などとは無縁でしたから、農民が米を売ったという話はなく、庄屋の倉のなかで米が腐って行ったという話もありません。 江戸幕府や藩の搾取がきわめて苛烈だったこと、自然災害が一旦起こると、蓄えのない農民は無力に近かったこと、農民の生活は、事実,相当に厳しかったこと、一部の貧農・貧しい小作人には、実際に雑穀などを食べて飢えをしのいでいた者もいたこと、この程度が事実でしょう。  

izumokun
質問者

お礼

 早朝より、早速のご回答ありがとうございました。やっぱり、ある程度の米は食べていたでしょうね。  ところで、asterさんのご回答で気になる点が一つあります。それは、「江戸末期になるまで、農民は貨幣などとは無縁」だったということです。  私は、18世紀半ばまでに耕地面積が増大し、農業が発達するに連れ、農民は商品作物に手を出す一方で、貨幣経済に巻き込まれて没落する農民も増えていったと理解していました。  そのへんは、どうなんでしょうか。たしか、18世紀の半ばには年貢の代金納が次第に増え、金銀納の増大が年貢米の増加率以上あったと記憶しています。そのことは、農民の商品作物生産が増え、農村へ貨幣経済が浸透していったことを示すと理解していましたが、自信はありません。もし、よろしかったらご教示お願いします。

  • nyozegamon
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回答No.1

同じ疑問を持たれた方がおられるようです。 下記URLを参照してください。

参考URL:
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory_farmers&rice.htm
izumokun
質問者

お礼

 深夜にもかかわらず、早速ご回答していただき、ありがとうございました。そして、ご紹介していただいた「歴史再発見」のページを見ました。  私と同じ疑問を持っておられた方がいらっしゃたこと、そして、その疑問を解き明かしてWeb上に公開されていたこと、それよりも何よりもnyozegamonがそのサイトのことを知っておられたことに驚きを感じました。お蔭様で、虚心坦懐になりました。ありがとうございました。