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「武烈」とか「継体」とかいう天皇の「名称」は???
現在の「令和天皇」というのは、126代のようです。明治以降の「天皇の名称」というのは分かりやすいのですが、そもそも126代の天皇の名称は、いつの時代、何によって決まったのでしょうか??? 現代では、「令和天皇」という呼び方も、即位する時には決まっていますので、特段の違和感がないのですが、まさか、「武烈」とか、「継体」とか、「名は体を表す」ような名前が、当時、即位したときから、使われていた、呼ばれていたとも思えないのですが。 あまりにも単純でばかばかしい質問なのかも知れませんが、よろしくお願いいたします。
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- oska2
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>そもそも126代の天皇の名称は、いつの時代、何によって決まったのでしょうか??? 壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が命令した「日本書紀」からですね。 そもそも、天武天皇までは天皇は存在しません。 それまでは、各地の王をたばねる「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。 天武天皇が、史上初めて「天皇として即位」したのです。 以降、先代天皇が崩御する時に「次期天皇の名で、諡号(しごう)や追号(ついごう)」を付けるのです。 ※朝廷内で、先の天皇に関する情報を整理して諡号・追号を決める。 >現代では、「令和天皇」という呼び方も、即位する時には決まっています 明治以降は、時の今上天皇崩御時には「元号を諡号・追号にする」事になっていますね。 >当時、即位したときから、使われていた、呼ばれていたとも思えないのですが。 その通りです。 先に書いた通り、先の天皇の情報を元に後から名付けます。 例えば、武烈天皇は「名前の通り、生前は悪虐非道の暴君」として恐れられていたので武烈と名付けられました。 例えば、継体天皇は「名前の通り、天皇系の直系血筋が途絶えたので5代前の天皇の子孫を福井から探し出して即位させた」ので「国体を継ぐ天皇」という意味で継体と名付けられました。 余談ですが・・・。 「磐井の乱」がありますよね。 これは、旧邪馬台国の継承であった筑紫の国造が「継体天皇を正当な天皇の後継者と認めなかった」事が原因で勃発しています。 記紀では、天皇家に反対する者は全て「反乱軍」と記載します。 「天皇家の血筋が絶えたので、5代前の天皇の子孫を探した」 証拠が無いのに「俺が天皇だ」と言われても、無条件で従えませんよね。 「天皇の命令だ。軍(兵士・武器・食料・船など)を準備して、新羅を攻撃しろ!」 継体天皇の正当性が疑わしいのに、従えませんよね。
- eroero4649
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#2です。 >今上天皇のお心次第で、「平成」ではなくなる可能性も否定できないということですか??? 今の上皇が亡くなった後に今上天皇が「どうしても父親に特別な諡号を送りたい」と言い出せば可能性はなくはないです。 現在の天皇制は本来生前退位は認められませんが、「今回だけの特別」で生前退位になりました。同じように諡号を送る制度は現在の天皇制にはありませんが、生前退位のときのように今上天皇が「どうしてもやりたい」となったら政府が動く可能性もなくもないです。「平成は災害や事件が多くてなんか縁起が悪いし、へーせーってオナラをしろっていってるみたいで音も悪い」とか言い出したりしてね。 もしそうなるとしたら、天皇の意向を受けて政府が有識者会議を開いて国民が支持するかどうかをみながら決めることになるでしょうね。 >「武烈」だとか、「継体」だとかいうのが、何によって決まったのか??? そのくらいの人たちは日本書紀に書いてあるのでそうだとなっています。日本書紀以降の人たちはその時代の公式記録に「こんな諡号を送ります」と残されているのでそう決まっています。 その時代の有識者会議によって諡号が決められて、それがそのときの今上天皇に奏上されて、天皇が裁可して正式にその天皇の名前が決まるのです。 日本書紀はそのときの日本政府が作った「国家の公式記録」です。それは「私たちは公式記録を編纂できるくらいに高度な文化と文明をもった国家なのです」ということを内外にアピールするものなのです。 >126代の「呼び名」がどのようにして最終的に確定したのか??? どのようにしてって、諡号が決まったらそれは「最終的に確定」です。 おそらく質問者さんは難しく考えすぎなのです。世襲される中小企業で考えればいいですよ。そういう会社で「社長」「会長」といったら誰のことか社内は誰でも分かるじゃないですか。会長は先代の社長、その息子が今の社長。だから社長や会長に個別の名前は不要ですよね。誰もが分かっているから。 天皇制ってのはそういう世襲システムの総本家みたいなところですから、そう考えるとそんなに違和感はないんですよ。 ところで現代の永田町でも、政治家は役職で呼ぶのが慣例なのだそうです。首相経験者には「総理」って呼ばないといけないんですって。だから麻生氏と安倍氏が同席している場で「あのー、総理」と呼びかけた場合どっちに呼びかけてるか非常に分かりづらいですよね。
お礼
今上天皇が「どうしても父親に特別な諡号を送りたい」と言い出せば可能性はなくはないです。……現実的ではないけど、理屈は分かりました。そんなことしたら皇室の信用はますます落ちちゃうような気がします。それでなくても……。 ところで現代の永田町でも、政治家は役職で呼ぶのが慣例なのだそうです。首相経験者には「総理」って呼ばないといけないんですって。だから麻生氏と安倍氏が同席している場で「あのー、総理」と呼びかけた場合どっちに呼びかけてるか非常に分かりづらいですよね。……そうなんですか。初めて知りました。それなら「○○代目」という呼び方すればいいと思う。どうせやくざと変わらないんだから。頭悪い奴らだな。笑
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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武烈天皇は伝説上で実在が疑問視されていますね。 次の継体天皇から今の皇室に続いているという説があります。 「音」として天皇の名前(日本諱 今上天皇で言う徳仁)として伝わってはいたと思います。 継体天皇は諱を「ヲホド」と伝わっており、「日本書紀」では男大迹王(をほどのおおきみ)「古事記」では袁本杼命(をほどのみこと)などと異なる漢字で当て字されて記されています。 初代神武天皇から41代持統天皇まで漢風諡号をつけたのは奈良時代後期〜末の文人 淡海三船だそうです。 各天皇の生涯を漢詩など中国の書物から熟語に当てはめて付けたそうです。 継体天皇は熟語の「継体持統」から継体と名付けられたそうです。 持統天皇もこの熟語からです。 継体天皇は前の武烈天皇に子がいなかったため遠い親戚から探し出されて天皇になった人物で、持統天皇は元々天武天皇の皇后で孫を天皇とさせるために天皇になりました。 両者とも天皇の血筋が途切れるのを防いだ天皇と言えます。
お礼
初代神武天皇から41代持統天皇まで漢風諡号をつけたのは奈良時代後期〜末の文人 淡海三船だそうです。……そうですか。初めて知りました。少し調べてみます。
- yuseiok
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>「武烈」とか、「継体」とか、「名は体を表す」ような名前が、当時、即位したときから、使われていた、呼ばれていたとも思えないのですが。 だからそんなことはないってことですよ。(亡くなってからの名前です。)
お礼
「武烈」とか「継体」というのは、いつの時代、何によって決まったのでしょうか???という疑問です。
- eroero4649
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天皇という存在はこの世に(今現在生きているなかでは)ひとりしか存在しないので、天皇に名前はありません。「天皇」といえば天皇その人しかいないのです。 昔は「御門」とか「禁裏」などと呼ばれていました。 質問者さんのいう武烈天皇とか継体天皇とかいう名前はどこから来ているのかという話ですが、それはその天皇が亡くなった後に次の天皇がお名前をプレゼントするのです。もちろん学者などが色々考えた末に決めることになります。 武烈天皇や継体天皇レベルになると日本書紀にそう書いてあるからそうなんだ、という感じですね。なので武烈天皇は実在そのものが疑われています。 その実在がはっきりと断言できるのは、継体天皇からといわれています。また「天皇」という名前を使い始めたのは天武天皇からといわれていますね。
お礼
文字で質問することの難しさと自分の文章能力の弱さを思い知らされます。 質問者さんのいう武烈天皇とか継体天皇とかいう名前はどこから来ているのかという話ですが、それはその天皇が亡くなった後に次の天皇がお名前をプレゼントするのです。もちろん学者などが色々考えた末に決めることになります。……それだったら、きわめて非現実だけど、今上天皇のお心次第で、「平成」ではなくなる可能性も否定できないということですか??? 武烈天皇や継体天皇レベルになると日本書紀にそう書いてあるからそうなんだ、という感じですね。……やはり「日本書紀」あたりも関係しているのですね。私が知りたかったのは、平成だとか令和ではなくて、「武烈」だとか、「継体」だとかいうのが、何によって決まったのか???ということと126代の「呼び名」がどのようにして最終的に確定したのか???ということなんです。
- yuseiok
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根本的な間違いがありますが、令和天皇はいません。 今の天皇(今上天皇)が亡くなって初めて令和天皇と呼ばれます。 なので平成天皇もいません。 ちなみに、令和という名前は上皇が退位を決断してから決めたので平成ですよ。
お礼
すみません。官房長官が発表すれば、単純に信じてしまうような単純人間ですので。 質問の趣旨はそんなことではないのです。
お礼
ありがとうございました。 壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)が命令した「日本書紀」からですね。……言い切ってもらうと、すっきりしました。 余談ですが・・・。~~従えませんよね。……興味深いお話ありがとうございました。私は、邪馬台国(今は纏向が有力視されているようですが。)は九州北部にあったのではないかと想像しています。「邪馬台国の南にあった狗奴国と戦ったという」ことが、宮崎にある西都原古墳などを連想させるのです。ヤマトにあったとしたら、南にあった狗奴国というのはどこなのだろう???と。まだ勉強していませんが、「磐井の乱」の精神的な背景がすっきりします。