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幕府が政権を執っていた頃の天皇の存在意義とは?

明治政府成立以降の天皇と比較してのそれ以前(幕府が政権を執っていた頃。特に江戸時代)の天皇の存在意義、 もしくはその頃の天皇というもののイメージは一体どんなものだったのでしょうか? 明治以降、政府に天皇親政を掲げられ祭り上げられた(と言って良いのでしょうか?)天皇は 新しい時代への風にもあおられてシンボルとして尊ばれるようになったそうですが それ以前は一体何をしていたのですか? 政治を執る幕府にとって天皇の存在とはどんなものだったのでしょう? 江戸時代でも、滅多なことでもない限り天皇への謁見は厳しく制限されていたそうですし、 できても会話は側近を通じて、顔はすだれなどで隠されて・・・ などなど、立場としてはかなり大事にされていたようですが、なぜ表舞台に現れることがなかったのでしょうか。 ご存知の方いらっしゃいましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.3

江戸時代以前の天皇と江戸時代とは明らかに相違します。 江戸時代に限って見ますと、天皇は神道による神主のような存在で、政治上の権力は殆ど有しませんでした。 ただ宗教的儀式における司会者のように将軍台変わりにおける将軍宣下、官位の昇任などは残されていました。 毒にも薬にもならぬ飾りものとして存続していたのです。 過去に有していた天皇領や公家領は縮小され幕府からの給付でかろうじて生存する常態でした。 それでも幕府は象徴的存在として形の上で尊重する態度をとっていました。 実際の政治は幕府が行っていましたから天皇は自分の意志で何かを行うことは許されず、例えば紫衣事件のように幕府から異議を唱えられれば抗議で譲位する事しかありませんでした。 従って天皇の普段の生活とは歌道や書道にいそしみ、神道行事を司る位でした。

quman_kl
質問者

お礼

大変わかりやすい回答どうもありがとうございます。 なるほど、幕府があんなに大手を振って政治を取り仕切っている間も 「象徴的存在」としての天皇はずっとあったのですね。 >幕府からの給付でかろうじて生存 この部分がすごく知りたかったのです。 あんなに実践力では目立たぬ存在なのに、どうやって普段の生活を成り立たせていたのだろうと思って・・・。 ありがとうございます。 シンボルとしての天皇というのは、感覚として今とそんなに変わらないものだったのでしょうね。

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  • MUD-Water
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回答No.5

ローマ法王のようなものです。 つまり日本教(神道)というべき宗教の頂点にある神主のようなものと言えばいいのでしょうか。 徳川家康は戦国時代の混乱を鎮めるために、平安。鎌倉時代のような天皇を頂点とした日本教の再構築をしたという説を読んだことがあります。 「明治政府はその日本教(神道)を天皇を神とした一神教のようなものに作り変えて、壊してしまった。 そして、現代の日本人は無宗教だと言い、新興宗教の創価学会やカルト宗教が世界で最も万延する無宗教国家になってしまった。」 山本七平 「日本人とユダヤ人」 従って、天皇を英訳する時に“皇帝”としていますが、実際は“法王”という方が正しいと思います。

quman_kl
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 「ローマ法王」のイメージ、なるほどと思いました。わかりやすいです。何かしっくりくる気がします。 そうですね、皇帝と言うと軍国主義のイメージがついてまわったりして なんか違うんだけどなあと思っていました。 日本教の話、おもしろいですね。

  • big0822
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回答No.4

 鎌倉幕府から幕府を開くための役職が朝廷から任命された征夷大将軍であり、以後慣例として源氏の流れをくむ足利や徳川が、征夷大将軍となって、国を治めました。武士の出でなかった羽柴秀吉は、豊臣姓を朝廷から貰い、関白として国を治めました。  国を治める権利を朝廷から貰ったということで、自らの政権に正当性を与えるためです。  江戸時代では、徳川光圀が、天皇を中心とした日本史を編纂したことが、後の尊王思想の始まりと言われています。  江戸中期には神道などの研究が行われることもあり、知識層の中で尊王論が常識となっていきました。  そして、ペリー来航のとき、幕府が、外交権は朝廷にあると言い逃れをしたことと、天皇が、異国の人間を排斥しろという意味のことを言ったということで、尊王論は攘夷論とも結びついていきます。それが攘夷を行わない開国主義の幕府を倒せということで、倒幕論と発展し、明治維新につながりました。  また、明治維新が上手くいったのは、幕末初期の長州、末期の薩長の志士が天皇の勅命を自由に操ることができた点も大きいです。  表舞台に現れることが無かったのは、勅命を出すのも、殆どの場合貴族が行うなど、貴族制度との関連でそうなっていたのではないでしょうか。

quman_kl
質問者

お礼

時代の流れを汲んだわかりやすい回答どうもありがとうございます。 なるほど、やはり昔から天皇は侵すべからずの存在意義を持ち続けているのですね。 征夷大将軍の意義も、「朝廷から任命された」という重要性にどうもずっとピンときてなかったのですが 同時に理解することができました。 光圀の日本史編纂の話もおもしろいと思いました。調べてみたのですが、水戸学と呼ばれるものなのですね。 これが産まれることになったのも、もともとそういった感情が日本人に潜在的にあったからなのかもしれません。 ありがとうございます。

回答No.2

実質的には、天皇は何の権力ももっていなかったが、 幕府は開設以来、天皇を推戴して反幕府勢力が反乱を起こすことを 恐れたのでしょうな。 しかし、天皇や皇族のめんどうを見る機関は幕府にはあったようで 血を絶やさないように腐心していたようです。 天皇の存在は、幕府にとっては必要不可欠だったと言えます。 これは、形式的には、天皇から、執政を委託されたということで 政権と体制の正当性を、儒教みたいなもので理論武装する必要が なかったということになりますわ。 あたしは、このことが、儒教が日本で教養程度以上のものに ならかった一因と考えています。 そうだとしても、一般の町民や農民、下級武士は、 幕末まで、天皇の存在を知らなかったそうです。 逆に、知らなかったことが、将軍よりエライ人がいるんだと いう驚きの落差が大きくなり、将軍がナンボのもんじゃということになり 尊皇運動の起爆剤になったのかも。 ちなみに、第二次大戦末期、日本軍の残党やら 民兵みたいなのが、山岳地帯に逃げ込んでゲリラ活動を 展開することを非常にアメリカは恐れたそうですな この勢力が天皇を推戴することも恐れたので 天皇を無視するより、法で地位を明確に 規定する方が賢明と判断したのでしょうな。

quman_kl
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 >天皇や皇族のめんどうを見る機関は幕府にはあった なるほど。 幕府にとって天皇は面倒な存在なのかなと思っていたのですが 国民の天皇への侵されぬ絶対的イメージや反幕府勢力への切り札として 上手に利用していたのですね。 それにしても、一般民は天皇の存在を知らなかったというのはおもしろいです。 幕末-明治のどたばたの要因は色んなところに転がっていますね。

回答No.1

神主程度の意義だったと思います。 実質的な国主である将軍家に宗教的権威を与えていたのでしょう。 たとえば、「伊勢神宮から国を任されている。」というような感じで「天皇から将軍職を賜っている」という感じだったのだと思います。

quman_kl
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 「神主」というのはイメージしやすいですね。 実践力はなくとも、その存在は昔から侵されることなく尊ばれていたのですね。

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