• ベストアンサー

南北朝の「合体」とは結局、南朝の「廃絶」のこと?

「明徳の和約」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84 1392年に足利義満により「南北朝の合体」が行なわれました。 「合体」とは言いますが、結局は南朝の天皇の子孫は即位させないという事になります。 なぜこれを「合体」と呼ぶのでしょうか? せめて南朝天皇の娘を北朝へ嫁がせて、その子供を新天皇に即位させると いう配慮あっても良かったんじゃないでしょうか? 継体天皇(妻は武烈天皇の娘)や光仁天皇(妻は聖武天皇の娘)や 光格天皇(妻は後桃園天皇の娘)の例を見ると、傍系の者を天皇として 即位させる場合、前天皇の娘と新天皇を結婚させて、その息子を また次の天皇へと即位させるという例が実際にあります。 このように女系の血筋によって、先代の家系を守りつつ傍系の家系を 正統化させる方法が多々ありますが、南北朝の例ではなぜそれを しなかったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.2

政治ってのはそういうものです。 相手のことを配慮なんかしません。 北朝というか足利将軍が譲歩したのは 廃位を合体と表現したところです。 それで名目が保てる。 まがりなりにも戦乱を終結させるのが目的であり、 皇統の問題は二の次です。 南朝側は九州でがんばっていただけだったんで、名目だけで十分でした。 そして和約の後は、南朝側は完全に力を失ったので、 彼らの立場を考慮する必要がなくなったために無視されたということ。 既得権益もあるので、公家側も南朝系の天皇を望まなかった。 また武家側は強い天皇の登場をそもそも望まなかったので、 皇統が正しく統一されることは好ましくありません。 だから分家から入れて、天皇の力をますます弱めたということです。

その他の回答 (2)

  • djiburil
  • ベストアンサー率47% (11/23)
回答No.3

南北朝史研究者の森茂暁氏によれば、足利義満には「幕府存立の理論的根拠を与えているのは天皇家であり、その天皇家が分裂したままだったり一方が断絶するようなことがあれば、理論的根拠を支える母体に瑕疵が生じ、当の理論自体の十全さを損なう」という思想があったため、武力では南朝側を圧倒しながらあえて「合体」というセレモニーにこだわったとされています。つまり、義満自身は「明徳の和約」で定められた両統が交互に天皇を出す原則を一応は守ろうとしたようで、義満が生きている間は後小松天皇の後継者は決められませんでした。御亀山上皇は、そこに大きな期待をかけていたようです。 しかし、義満が没して義持の時代になるとそうした政治方針が大転換し、それまで決められていなかった後小松天皇の後継者に、後小松天皇の第一子躬仁親王が擁立されてしまいます。これに怒った後亀山上皇は出奔してしまうわけですが、旧南朝側からすれば後小松の後の皇位を譲るという約束すら果たされないなかで娘を嫁がせても、まず男子が生まれるかどうか分からず、生まれても皇位につかせられるかどうか全く保障されないような政治状況の中では、あくまで皇位の即時引き渡し自体を求めるしかなかったでしょう。 また北朝側にしても、元来持明院統の方が天皇家の嫡流(後深草天皇が後嵯峨上皇の長兄であり、大覚寺統の亀山天皇はその弟)という意識があり、しかも後醍醐-後亀山系統は大覚寺統の中でも庶流であったため、あえてその血脈を残さなければならないという意識は薄かったようです。 その後足利義教の代になると、反幕運動の激化とそれの旗頭に旧南朝の人間が担ぎ出されることを嫌って、「南方一流断絶さるべし」(看聞日記)という超強硬方針が打ち出され、南朝は消滅へ向って進んでいくことになります。 南朝史については、 南朝全史 大覚寺統から後南朝ヘ (講談社選書メチエ ) http://www.bk1.jp/product/02565476 闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書) http://www.bk1.jp/product/01458408 がお勧めです。読みやすいのでご一読ください。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

南朝だって、もうギブアップしたかったんだよ。 今風にいえば「落としどころ」ってやつ。 すでに圧倒的に北朝というか足利勢が優勢で、北朝側の内部反乱分子が思い出したように、南朝の旗を掲げるというのが実態。これはすでに観応の擾乱の段階でハッキリしている。 義満とすれば、掲げる旗(南朝)を納めさせるのが目的ですから。 継体天皇の時は、大和以外から正統性が薄い中で大和に入ってくるに必要だったわけです。光仁にしても光格にしても、自らに正統性が弱い中での即位ですから、前天皇の血筋を入れる必要があったということでしょう。

関連するQ&A