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マルクスの宗教論
マルクスは宗教について 人間の自己疎外と捉えているので 宗教には疎外された形で人間の本質が 表現されていると考えていいんでしょうか?
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- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 >マルクスは宗教について 人間の自己疎外と捉えているので 宗教には疎外された形で人間の本質が 表現されていると考えていいんでしょうか? ⇒そうですね。そのように解釈できるかも知れませんが、より厳密には「宗教には疎外された形で人間の本質が表現されている《とマルクスは読み取った》」ということかも知れませんね。 そもそも哲学上の定義としての自己疎外とは、《ある存在が自己の内にあるもの、自己の本質であるものを「外化」(Entaußern、「放棄」)し、その自己の外化したものを、自己自身の他者として、自己にとってよそよそしいものと見なすこと》をいう(哲学事典)とされています。 キリスト教史上で、神の奇跡や啓示に疑いを差し挟む見解が現われるのは、17-18世紀のヨーロッパ(ヴォルテールらの「理神論」)からで、カント(1724-1804年) はこれを敷衍して「神は科学的認識対象でなく、信仰の対象にすぎない」とした。一方、ヘーゲル(1770-1831年) は、観念論哲学の観点から創造する神を認め、人間の精神が疎外されているので、それを自己のうちに取り戻すこと(自己内回帰)が必要であるとした。それに異論を唱えたのはフォイェルバッハ(1775-1833年) で、神は人間の作った自己写像に過ぎない。それなのに、人間はその自分の作った虚像に疎外されるという醜態に陥っている、とした。 マルクス(1818-1833年) が登場するのはこういって歴史的背景のもとでした。彼は、上述のような歴史的観点からフォイェルバッハ説を受け入れ、神の虚像説を論難し、資本主義体制のもとで人間は、《本来自分で作り出した宗教(や政治経済)の社会的諸条件にとらわれ、主体としてのあり方を失っている状態にある》として、時の現実を批判しました。 ということですから、確かにマルクスは、宗教を「人間の自己疎外」として捉えているようですが、それは、「宗教に疎外された形で人間の本質が表現されている」と考えたからというより、歴史の当時における通時的帰着点として、人間精神のあり方、というより、人間の全般的なあり方が、「諸々の歴史的産物、とりわけ宗教によって自己疎外を被っている状況」を指摘したものと考える次第です。
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