マルクスの思想の重要事はまさにその「疎外からの開放」です。
資本論で示されているように、彼にとって疎外は人間性を失わせていくもので
これをなんとかしよう、というのがマルクスの思想です。
あれ?ここだけ見るとまともに見える。ふしぎ!
では、その原点はどこにあるか。彼の思想の土台となった唯物史観は簡単に言うと
「モノによってモノが生まれる」という考え方をします。
どういうことかというと、疎外にしても「モノ」が原因になるわけです。
ここから疎外の原因はとなるモノは何かを探ったときに、それはお金(資本)だとしたわけです。
お金というものがあれば(本源的)蓄積が起こるので、人間社会に「疎外」が起こる。
疎外の原因がお金として、唯物論的観点から、マルクスはお金を
キリスト教の原罪と同じ表現であらわしたわけです。
つまり、お金を持っている人は原罪を有している=資本家は吸血鬼で根源的な悪!
ということになります。ここからはもはや善と悪の話になってしまい、
後は宗教国家が歴史的にたどってきた暴力的な異端排除や戦争と同じ。
この悪を成敗するは、神聖なる労働者階級であって、
資本家に対しては暴力と独裁を持ってしても許容される、と結論につながるわけです。
ええ、やっぱりむちゃくちゃでんがな。
もちろん歴史を見れば明らかではありますが、共産主義を標榜すれば、予定通りに独裁が起き、
結果としては疎外が自由主義国とは比べ物にならない勢いで強まっていきました。
ただ、このむちゃくちゃが19世紀には一部で支持されたことも間違いない。これは何故でしょうか?
私は、資本に対する無知や不理解(あるいは積極的誤解)がもたらした誤謬であると思うのです。
ここ100年で経済の分析は進み、現代において我々が容易に知ることができるように、
資本は原罪なんて大仰なものではなく、観測・分析が可能な道具に過ぎないものです。
そもそもマルクスが問題にした本源的蓄積にしても、お金が無くたって発生しうるケースが多く示されています。
それでもマルクスの思想は、土台が唯物論なので原因をモノにおかなければいけない。
本源的蓄積の原因を、現代においてごく普通の観点のように人間の精神活動によるもの、
すなわち利己心によるものであるともできなかったわけです。
そこで目をつけられたのが、彼にとって"よくわからない"お金だったんじゃないでしょうか。