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情態性とマルクス
ハイデガー哲学で言う情態性と、 マルクス主義で言う、意識ではなく社会的存在が 人間の意識を決定するという理論は似てると思いませんか?
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似ているのは当然です。 近代になって理性が重視されるようになりましたが、 その理性はどこから来るのか、という問題に おいて、共通だからです。 私を動かすのは、私の知らない力ではないのか、 ということで、更に共通しています。 これはハイデガーやマルクスに限りません。 社会の中で造られるとしたのはフッサールで、 人間関係で造られるとしたのはフーコーで、 神によるとしたのはヘーゲルで、 無意識だ、としたのがフロイトで、 構造だとするのが構造主義です。 これらは皆、似ています。
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- koosaka
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ハイデガーの「情態性」と言いますが、私の持っている「存在と時間」は細谷貞雄・訳ですが、そんな難しい言葉ではなく、単に「気分」と訳しています。 「気分」は「心境」「頽落」「関心」「配慮」と並んで、現存在の存在様態の一つです。 フッサールの「志向性」の概念から借りてきたもので、志向性とは意識の本質で、意識とは何ものかの意識である、ということに由来します。 その「志向性」の弱い在り方が「気分」で、「心境」「頽落」などが含まれます。 そして強い在り方が、「関心」とか「配慮」です。 それと「不安」というものが、弱い志向性に含まれます。 たとえば、「恐怖」は具体的な対象があってそれに対する恐れですが、「不安」の場合、「何となく不安」とか「漠然とした不安」というように明確な対象がない意識の在り方です。 「気分」も同じで、「気分」は「雰囲気」と同じで、対象があって「気分」を覚えるのでなく、具体的な対象がなくそれに「包まれるもの」です。 日本でいえば「空気」ですかね。 「空気を読め」という。 具体的に対象があるわけではない。 ハイデガーは、その「気分」とか「不安」という、私たちがそれに「包まれる」ものを「世界」と言っています。 そして現存在の存在構造とか本質を「世界・内・存在」と言っています。 これは生物学者のフォン・ユスキュルの「生物から見た世界」という環境世界の概念から借りてきたもので、人間存在は世界を対象として向かい合っているのではなく、それに「包まれてある」という考えに基くものです。 人間は存在する前に「不安」「気分」という感情に「包まれてある」、そしてすでに与えられている世界の中で、自分というものを作り上げて行く。 このすでにあるという実存の在り方をハイデガーは「被投性」と言っています。 だから人間的実存は「被投的投企」である、と。 そして世界に開かれてあることを「脱自・エクスターゼ」と言っています。 これはフッサールいう意識が「志向性」にあり、それ自身は中身がなく、外に向かっている、という考えから来ます。 デカルトの「コギト」が内面にあるものとしたら、その否定です。 それであなたの質問に戻りますが、そのハイデガーの言う「情態性・気分」が、マルクス主義でいう「意識が存在を決定するのでなく、社会的存在が人間の意識を決定するという理論と似ていると思いませんか?」といいます。 確かに、ハイデガーは人間の主体とか意識の前に「被投的」な「気分」とか「不安」が先行する、しかる後、意識がある、という点ではちょっと似ているところがあります。 要するに近代哲学の自我とか主体があり、それが原点であり、それからすべては出発するということを否定する点では、マルクスの存在が意識を決定する、というのと似ています。 でも、似ていない点もあります。 マルクスは存在ということで社会的存在をイメージしていましたが、ハイデガーは人間の感情が「受動的」であることから、それを先行すると考えていたので、違うと思います。
お礼
ありがとうございます。
お礼
そうですね、ありがとうございます。