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宗教が生まれるメカニズムについて

宗教の講義を取っているのですが宗教が生まれたメカニズムが 良く理解できず質問しました。 まずキリスト教が誕生したのは人間の本質である「愛」を 具現化するために愛の象徴である神を作り出したと考えれば 良いのでしょうか? あるいはニーチェが言う様に人間の不安な気持ちを解消し心の 拠り所を作るために神を作り出したという説のが正しいのでしょうか? キリスト教に限らず一神教の宗教は、この様な形から生まれたのでは ないかと思うのですが、どうなのでしょうか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.6

 人間には 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で 持っていると考えられる現象が見受けられます。その昔 アイヌの間で こういうことが起こったそうです。   一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。   巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た  してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。    ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし     の体を重ねてみる。      そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに     あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。  おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないでしょう。  神体山であるとか神木とよばれた樹木 これらに身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびます。  これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。  何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや上のアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく このシャーマンの出番となる場合です。  何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界に身を置き さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。  さらに時を飛びます。  やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも 新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。  農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから取り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。  要するに 自分たちは 老いると ただ倒れるのではなく 死ぬのだという認識がからんでいるはづです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得したと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。  ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも       社会力学上(政治的に) 寄せる。  ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。  言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。  さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。  単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。  ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性を超えたところの精神において) マツリゴトとして 制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。  古事記には こうあります。    その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ   コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。     四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には 九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。  これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに 人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。  つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びとと同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。  嫌ったので 強引に 社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか それとも 人びとが その新型シャーマンに辟易して これを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも推し測られます。(国譲り説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。  要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。    ・ニーチェは 話になりません。神の代理とその権威の下に作られた宗教 つまり 宗教の教義の神(つまり これは 観念です)に対して 必要のないけんかをふっかけているだけです。  ・愛とは 社会における人びとのあいだの ふつうの共生であるでしょう。神との共生も 個人にあっては 信教・良心の自由において 伴なわれることでしょう。神の代理との共食は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。わたしたちは 永く 働き蜂に甘んじていたわけです。イリ歴史知性の回復 万葉集いや億葉集のルネサンスということではないでしょうか。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 超人・自然への崇拝心から宗教は生まれ また宗教と言う言葉の意味の通り神と人間を結ぶという意味から 次第に神のと共生を考えるようになり宗教が生まれたということ でしょうか? つまり超人・自然崇拝や人間の心の弱さから宗教は どの人種にも生まれるものと考えて良さそうですね。

その他の回答 (11)

  • Oubli
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回答No.12

 ちょっと脇道にそれます。イエスはユダヤ教の改革者だったのか、反ローマの民族主義者だったのか、ヒッピー的共同体の主導者だったのかは解りませんが、キリスト教徒でなかったことだけは確かです。キリスト教徒にもいろいろありますが、基本的にはイエスの処刑後の復活を信じている人たちのことです。一神教とは直接関係のない話なので、わけて考えた方が良いと思います。

siniti009
質問者

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ありがとうございます

noname#74145
noname#74145
回答No.11

人間は将来を見る事はできません、将来が分からないと不安に成ります、不安になると精神が異常を起こします、これを防ぐには何かにすがる必要があります。 という訳で内容なんて何でも良いのですよ、要するに自分が安心出来れば良いのです。 当然その宗教が正しいとか間違っているとかはあまり問題になりません。 という訳で不安を抱えている人こそ必然的に宗教にすがりたくなりますね。 >宗教が生まれるメカニズムについて 正常な人間本来の特性だと思います。本能に近いのではありませんか。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます

  • wentbook
  • ベストアンサー率0% (0/6)
回答No.10

基本的に人間って、絶対的な力を持った、というか超越的な存在に従っているほうがラクに生きれると思うんです。何にも考えなくて与えられたものに従ってればいいから。 「これはこうすることが正しい」宗教の基本ですよね。あれこれ迷わず考え方を「固定」することによって不安を払拭する。だから神を作る。 だから、私の考えはニーチェに近いのかなぁ。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.9

こんにちは。 個人的意見ですが。 この質問が、たぶん宗教や神に対して肯定的か否定的かで意見が分かれると思います。 愛の象徴である神を作った、ということと、ニーチェが言う依存のために神を作った、というのは、同じことを指すか、あるいは違うけれど表裏一体、という位置関係かと思います。 依存の対象を作ったのは、自己の向上のためか、間違った道に踏み入ってしまったのか、とい解釈の違いと理解します。 それは正しい道なのか、間違った道なのか、という感じです。 また、作った、といいますが、実際には無意識の心のメカニズムによるオートマチックなものです。作った、という方が理解しやすいですが、あまり正確とは思えません。 哲学も宗教もその表現は恐ろしく不正確で、いい加減なものの上にいい加減なものをのっけるような方法では、話が滅茶苦茶になります。不正確=論理的であるようで、じつは感情論だ、ということです。 言葉、とは、表は論理で、裏は感情です。2つは対になって存在します。その両方を把握しないと、こういう議論は成立しないのでは、と個人的には思います。 話を戻しますと、このお話の場合、依存と愛の仕組みと関係についてはっきりさせないと答えを出せないなーと感じます&考えます。裏表だというのはたぶん問題ないと思うのですが・・・ なんか苦情みたいなことを書いてしまいましたが、参考になりますでしょうか?

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます

  • markx01
  • ベストアンサー率20% (12/59)
回答No.8

ニーチェの言が最もポピュラーで明快な回答であり 理解に容易い事実だと思います。 ただ、一部の利益主義宗教を別として、世界中にある 長く根付いている歴史的宗教の内容は その国、地域性を 深く配慮した教えとなっています。 それぞれ教祖となる母体の発生時期は異なりますから 神様などの存在は架空的存在ですよね?伝説はあっても歴史ではない。 ◎人間による指導では、その人間に邪念があることを否定できない ◎人間による教育では、正しいことを言っている確証が無い ◎人間は物の考えを簡単にひっくり返す場合がある ところが、超越した存在、人間の上に位置する神の世界であれば 裏切らない、嘘をつかない存在と称えられ、崇拝し 絶対的に信じられる。 そこを利用し、各地域の一般崇拝者たちの考えを洗脳していく。 ※一方では土地や主人の守護のため血を流す聖戦で進んで死に向かう ※一方では反発を許さず、されるがままに自己犠牲を繰り返す・・・ 土地・地域に適合した洗脳(教育)、これが宗教の発生であり また効力を持つ理由であり、神が多数存在する理由であり 長期に渡り存在しうる理由であると思います。 回答をコンパクトに纏めるの大変w 皆長い文章お疲れ様

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 つまり人間の心の弱さから宗教を信じさせ政治に 利用したり団結を強くするために利用したという考えですね。 元々、人間は宗教を信じやすく作ってしまう性質が あるのだと思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.7

自我意識の存在理由を求める結果ではないでしょうか。自我意識が脳の産物として、脳は体の一部ですが、体あっての脳と考えるよりも自我意識の機嫌を何か深遠なものから発生していると考えたのではないでしょうか。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 私としては人間の弱さや超人崇拝から宗教が生まれるのかなと 思ったのですが「心」とは何なのかや死後どうなってしまうのかと いう不安から宗教が生まれたと言う事でしょうか? 確かに、これも人間の弱さに含めれていると思いますし 都合よく宗教に取り込まれていったと考えられますね。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.5

どのようなアプローチを取るかによって回答は変わってきます。 哲学的に回答しようとすると、哲学者フォイエルバッハの物象化論が有名です。(フォイエルバッハ一族はよほど有能だったのか、法学者フォイエルバッハ、画家フォイエルバッハなどがいたので、混同しないように)。これは簡単に言ってしまえば、「宗教は人間が作ったものであるにもかかわらず、人間はそれを忘れてしまっている。だから、宗教が人間を支配するという、間違った思考法に落ち込んでしまう」というもの。 具体例を考えると、非常に簡単です。神社でくれるお守りなんてものは、人間が手作業で作って、中に紙か何かを入れただけのものであるにもかかわらず、それでも、中をのぞくと何か良くないことが起こるのではないかという、漠然とした不安を持っている日本人はたくさんいるわけです。 また、人形のように人の形をしたものを、そのまま捨てるのは何か悪いことであるかのように感じ、神社に行って焼いてもらうことで、やっと安心するという人も、たくさんいるでしょう。 また、正月のしめ縄なども、神社で焼いてもらう人が多いですね。 こういう迷信にしばられている日本人は今でもたくさんいますが、これらは本来、野蛮時代に属するものです。現代にまで、このような迷信が根強く生き残っていることを見ると、日本人は無宗教だという主張が、誤りであることが明確に分かります。日本人は無宗教どころか、迷信にとらわれているのです。ちなみに私の父方祖母は、平然としめ縄を、ゴミ収集車に入れます。フォイエルバッハのレベルに達しているのか、単なる無頓着なのかは知りませんが。 さて、ご質問の主旨に戻りますが、キリスト教が生まれたメカニズムは、当時の歴史的状況を知らないと、全く意味が分かりません。キリスト教はユダヤ教から派生した宗教であり、ユダヤ人国家は当時、ローマ帝国の属国でした。世間では、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は全て一神教だと思っている人が多いのですが、この一神教の解釈の仕方が違うのです。 ユダヤ教における一神教とは、「神は1人しかいない」という意味ではありません。「それぞれの民族にそれぞれの神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強だ」という発想が見え隠れするのです。例えば、有名な楽園追放の物語が旧約聖書にはありますが、神々(複数形)が、「見よ、彼らは禁断の果実を食べた云々」の議論をしているのを見るのは、なかなか愉快です。これがユダヤ教が持っている悪い傾向のひとつである選民思想につながっていくのです。つまり、自分達は最強の神から選ばれた特別な存在だ、と。 キリスト教においては、ユダヤ教式の、不純物の混ざった一神教は浄化され、民族の壁を超えて大きく広まっていくための地盤が作られました。当時のユダヤ人の間では、ローマに支配されているという屈辱感から反ローマ強硬派も多数いたのですが、キリストは政治的なセンスも優れた人物で、キリストは反ローマ過激派だというレッテルを貼りつけようとするわなに、簡単には引っかからないのです。あの「神のものは神へ、カエサル(皇帝)のものはカエサルに返せば良い」という言葉は、「ローマの皇帝による寛大な支配がそんなに不満か。税金くらい払え」という意味なのです。こういう機転の利く人は、なかなかわなには、はまりません。 キリストに「愛」という言葉で表現されるような、すばらしい功績があるのかと言われたら、ひとつ、強力なものが思いつきます。ハムラビ法典以来の「目には目を、歯には歯を」という復讐理論にもとづく刑法を真っ向から否定し、「右のほほを殴られたら、左のほほを殴らせろ」と教えたことです。これは、現代のイスラム刑法においても、国によっては、現実に復讐理論の刑法を守り続けている国があり、相手の腕を破壊した暴漢は、腕を切り落とされるという国が、本当に存在するのと対称的です。しかし、この古い復讐原理に基づく刑法は、キリストが2000年前に、すでに論駁ずみなのです。なぜ復讐理論が間違っているのかというと、復讐理論を使うと、やられたほうがやり返すという復讐の連鎖という状態になってしまい、これが世代を超えて、家庭間や民族間や国家間にすら、広まって行ってしまうのです。これについては、キリストよりさらに早い段階で、親の因果が子に報いるという悪矛盾をとめない限り、涅槃への到達(解脱)は不可能だと説いた仏陀もいるのですが。 キリストの死後、しばらくの間、キリスト教徒はローマの迫害を受け続けました。信者は多数、殺害されました。それでもキリスト教は勢力を広げ続け、まずアルメニアが世界で初めて、キリスト教を国教とした国となります。ローマがキリスト教を国教にしたのは、それより後のことです。ここには少々、高校の教科書などでは、まず教えてくれない事情があります。ユダヤ人の戒律のひとつに、割礼と言って、男の子は産まれて間もない段階で、包茎手術を受け、包皮を切り取らなければならないというものがあったのです。この慣習は、ギリシャ・ローマの文化になじんでいる人々からは、極めて不気味な悪習であるように思われていました。ユダヤ人が時々、奴隷や使用人に割礼を行おうとすることが多かったため、ローマ帝国からは、「割礼はユダヤ人の間だけでやれ。大人になった他民族に、そのような慣習を押しつけることは許さん」という命令を食らっていたのです。 キリストの死後、多くの信者が熱心にローマ帝国という巨大国家の中を旅しながら痛感したのは、すでに大人になっている多神教信者のローマ人に布教をしようとすると、絶対に相手が割礼を嫌がるということでした。そこで、キリスト教は、早い段階で「割礼の儀式は不要である」と宣言し、ギリシャ・ローマ文化になじんだ人々に、安心感を与えたのです。これは、キリスト教が成功した要因のひとつなのに、あまり意識されていません。 > ニーチェが言う様に人間の不安な気持ちを解消し心の 拠り所を作るために神を作り出したという説のが正しいのでしょうか? 理論の枠組みとしてとらえれば、ニーチェの議論は、フォイエルバッハの議論と適合性が高く、矛盾が生じません。しかし、歴史的事実としては、キリスト教が生まれたきっかけは、人々のこころの不安を解消するという目的にあったとは思いません。むしろ、細かくて堅苦しい厳密な旧約聖書の研究と、その道徳理論の実践というユダヤ教の原理主義的性格を改革し、より自由な解釈で本質的な部分を重視するということが、キリストの目標だったと思われます。 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のいずれも、人々の心のよりどころを作るために、一神教を作ったわけではありません。ただ単に、それぞれの一神教の解釈の仕方が違うだけです。それは、このような感じです。 ▲ユダヤ教:神は多数いるが、ユダヤ人についているヤーヴェこそ最強だ。 ▲キリスト教:神は1人。いわゆる三位一体説をとり、人間にとって分かり安い一神教を目指す。なぜなら、神と人間の間には差がありすぎ、まん中に媒介するものを入れないと、一神教は機能しないから。悪いことをしてしまった人の悩みを聖職者が秘密で聞くという、懺悔の制度を持つ ▲イスラム教:神は1人。神と個人は、一対一の直接なつながりを持ち、中間物を介さない最も純粋な一神教を目指す。懺悔の制度など、不要。悪いことをしたら、自分が神に謝ればよい ところで、一神教であるはずのユダヤ教とキリスト教には、神と悪魔の最終戦争という思想があり、ユダヤ教の場合はダニエル書、キリスト教の場合は黙示録にその思想が見られます。しかし、ここには大きな問題があるのです。一神教の枠組みを厳密に守ると、「唯一絶対の創造主がいるのなら、何のために悪などというものまで作ったのですか?」という質問には、正面突破で対応することは絶対に出来ません。 なぜこのような不思議な現象が起きているのかというと、ほぼ間違いなく、ペルシャの影響だと思います。ペルシャのゾロアスター教(拝火教)は、二元論的な枠組みをとり、善と悪の2つが並び立っているという考え方をします。このゾロアスター的な思想が、ユダヤ教にまぎれこんでいるのです。そして、善と悪は、単に並び立っているだけではなく、最終戦争を起こします。ダニエル書のほうは事情に詳しくないので何とも言えませんが、キリスト教の黙示録なら、多少は分かります。黙示録はほとんど意味不明の文章ですが、その趣旨は、次のような主旨の暗号の手紙だと言われています。「我々、キリスト教徒はローマの弾圧を受けている。このような状況だからこそ、我々は一致団結して、生き延びなければならない。まもなく最終戦争が起こり、かつてのバビロンと同じく、ローマは滅びるであろう」、と。この、一神教の中に取り込まれた二元論による最終戦争という思想は、まさに、ニーチェが好んで使うルサンチマンの概念に近い発想法を示しています。しかし、キリスト教の歴史の全体像を考えてみると、この二元論的最終戦争が前面に出てくる必要はないように思われます。なぜなら、黙示録が書かれた後、キリスト教はローマの国教になったからです。国教として採用されるまでにいたった段階では、ローマの滅亡とそこからの独立を信じぬけという黙示録のメッセージは、もはや過去のことを語っているのであって、全く現実政治上の意味を持ちません。それでも新約聖書は、黙示録を削除しませんでした。だから、本来はすでに決着がついているはずの問題について、わざわざ暗号化されているため解釈が難しい黙示録をめぐって、未だにオカルト的な立場から無意味な議論をしている人がいるという、困った現象を引き起こしているのです。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 つまり政治的支配をしやすくするために宗教を作ったと いうことでしょうか? その過程で人間の不安な心に漬け込み「神の愛」などといった 言葉を利用して徐々に信者を増やしていったということでしょうか? ニーチェが言っていることは人間が宗教を信仰するまでの 過程を考えたと言う事でしょうね

  • kigurumi
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回答No.4

>まずキリスト教が誕生したのは人間の本質である「愛」を 具現化するために愛の象徴である神を作り出したと考えれば 良いのでしょうか? 私はそうは思えません。 プラトン。 彼は、 紀元前427年 - 紀元前347年の人物。 彼は人間の幸福について考えている。 そればかりか、集団の幸福 在り方についても考えている。 例えば、義人だと評判の人がいたとします。 その人は、本質が義人だから、善いことをしているのか、義人だという評判を得るために、義人としてふるまっているのか。 で、その人から善いとされるものを全部奪う。 その人は善いことをやっている、悪いことは全くやっていないという評判を得ているので、その人に対して、罪を犯していないにも関わらず、罪を犯したとして、鞭を打ち、辱めを与え、磔にする。 それでも最後まで善い人で在り続けた場合、その人は評判を得るために善い人のふりをしていたのではなく、本質が善い人だったので、善い行いをやっていたということが証明される。 ってしたんですね。 どっかで聞いたことがある内容ですが、いわゆる新約聖書という神話に登場するイエスの処刑のシーンです。 イエスの時代設定より、ずっと前に唱えられた義の証明。 イデア(全くの義)の存在証明。 で、プラトンは、イデアは人間の外にあり、一部のイデアを認識できる哲学者の言うことに従えば、イデアを認識しない人も、義人としてふるまえる としたんです。 で、えっと、、、、 http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4003360176 のレビューを一読ください。 つまり 早い話が、一部の人が、民衆を支配するのがよろし なんですね。 だから、キリスト教ができたとき、一部の人たちが、支配するヒエラルキーの制度を作った。 主人と奴隷の関係を良しとしたわけです。 もちろん キリスト教の幹部が主人で、信者がその奴隷。 一部の支配者に絶対服従することこそ、理想国家なり ってわけです。 支配者の服従の強制を愛 とするか、命令とするか。 支配者は自分は正しいと思っているので、人々を支配し、自分の思うこと以外をやらないように やったら天国にいけませんよ など脅すことで、信者が悪いことをしないように押し留めることは 愛だ ってわけです。 ですが、脅しにものらず、支配者が望まないこと、法律を破る行為をする信者は、死刑 なわけです。 といっても実際裁判記録で死刑は、一桁 えっと 2%から12%くらいだったとされ、、、、、 でもこれはあくあまで信者に対する刑であり、例えば外国人の場合、異教徒なので、その外国人が金持ちでその金がほしかったら、魔女だとかいって、拷問して、それで自分は魔女だと言ったら死刑、魔女だといわなくても死刑 そして金を奪って教会も奪った金をもらってキンピカ御殿を建築していった。 で、プラトンの思想は民主主義に対して反対を表明しており、のちの共産主義・社会主義みたいなものを理想国家としたんですね。 というわけで、プラトンの思想は後に、ディアスポラしたユダヤ人に影響を与え、受け入れられ、キリスト教が誕生し、民主主義だったローマ帝国で、神の子 救世主 とされる皇帝に、その思想は歓迎され、民衆に自由を与えているようで、実は抑えるつけることが可能なこの宗教がローマ皇帝に気に入られ、取り入れられた と。 で、ローマ皇帝は神の子で、ローマでは神をデウスと呼んだり、救世主ユピテルと呼んだりしていたが、ローマの属州となったユデアのエルサレム神殿にこの皇帝の偶像、ユピテル像を設置しようとしたところ、とうとうおとなしいユダヤ人がぶちきれた と。 デウス つまり 皇帝をなんで拝まなければならん! 自分達はローマ帝国の皇帝を神だとしていない ってわけです。 実はこれは皇帝の策略じゃなく、ピラトら属州に派遣された総督たちが、ユダヤ人を大嫌いだったので、苛めるためにやったわけです。 そして、ネコババしていたのがローマ皇帝にばれては困るので、その前になんとかユダヤ人が皇帝に嫌われるよう あおりにあおって いやがらせをした。 どうしてそんなことをピラトをはじめ歴代の総督達はやっていたかというと、ユダヤがローマ皇帝によって特別扱いされて愛されたから。 ローマ帝国の中でも優等生で、手厚い庇護を受けていたのがユダヤ。 総督たちにしてみれば「なんでこいつらが!」だったわけです。 で、あおりに煽って、とうとうぶちきれさせ、ローマにたてついたが、結局 武力で負けて、世界に散らされたわけです。 ところが、後にキリスト教ができて、キリスト教徒は神のことをデウス と呼ぶことになる。 ローマ帝国に寝返った元ユダヤ教徒 後にキリスト教徒になった人たちは、自分達を選んだ神を捨て、武力の強いローマ皇帝に庇護を求めたわけです。 ニーチェは後に、人に対する妬みがキリスト教信者に現れているとしていたと思います。 本来なら、自分達を支配しているものに「おかしいじゃないか」というべきですが、怖すぎていえず、仲間に対して嫉妬し、それでもかなわないので、「貧乏なものこそ天国にいけるのさ へへ」と妬みの気持ちを消化 あるじは 自慰していた。 キリスト教は一神教???かな????  うーーーん イデアの存在を信じているより、自分の妬みの心を忘却する手段として、一時しのぎとして信仰しているんじゃないか と。 キリスト教と違い、ユダヤ教は唯一神信仰です。 どう違うかというと、一神教は、神は一個しかない つまり キリスト教でいけば、究極の義のイデアは1つしかなく、それは普遍である としている。 対するユダヤ教は、他の神々の存在を認めているが、自分達の神は、自分達を奴隷の地位から救済した神のみを信仰する というもの。 で、奴隷精神が旺盛な人は、キリスト教に入って人の奴隷になった。 ユダヤ教の場合、律法には従うが、人には支配されない。 ってのが基本。 一神教が言う究極の善:普遍のイデアが存在するのか? えっとアリストテレスは、そんなものは無い と言ったような。 宗教は、もともと幸福の追求という願望から生まれてはくると思うのですが、単独ではおさまらず、どうしても主人と奴隷の両方が存在しないと、存在できないと思えるんですね。 ここが哲学と違うところじゃないかと。 哲学は、例え人が支持しようとしまいと、「俺はこう思う」でいいのです。(ラスコーリニコフのように踏み越えてしまうまでだと困りますが) 宗教は、単独では存在せず、支持する人がいないと成り立たない。 1人宗教やってもいいと思えますが、それは宗教じゃなく哲学の方に入ると思うんですね。 で、同じ思想でも「プラトンがこう説いた」より、同じものなのにそれを「神様が言った」とした方が、奴隷たちを服従させやすい。 なんで人間じゃ駄目なんでしょうね。 神にしないと難しいと知った皇帝は、それでうまく宗教を利用して、奴隷達 いえ 市民達を支配できた。 神に従え、は、自分に従え であるが、「自分に従え」というより、神に従え デウスに従え と言った方が、またたくまに市民は従うので、効力のある方を使った つまり 宗教を使って統治しようとしたわけです。 それに成功したのが、コンスタンティヌス1世。 で、その後も皇帝たちはコンスタンティヌスのこの遺産を受けついたが、市民も強くて、民主主義が強いので、皇帝すらリコールされそうになり、皇帝は逃げ出そうとしたが、妻が「皇帝の最高の衣装は死装束じゃないですか」という言葉に奮起し、逃げ出さずに、民主主義における民衆達を統治した。 ひとたび市民が皇帝を崇拝しなくなると、皇帝は皇帝じゃなくなる。 宗教をうまく使わないと、殺さるわけで、猛獣使いの技術が無いと、皇帝は務まらない。 で、うまく猛獣を操るには「神を信仰しましょう」が一番。 たちまち虎が羊になるから。 こうやって、人間が人間を支配する いや 統治するのは宗教が一番 ってことで、宗教が使われたんじゃないか と思います。 ただ、中にはものすごい猛獣がいて、支配者が決めた法律を守らないものがいる。 そうなると、皇帝に反逆するわけで、そういう人を野放しにしておくと、支配者の地位の危機。 というわけで、「殺すなかれ」が「神に(皇帝に)謀反を起こしたものは処刑」となり、ピラトなどわんさか謀反者がいたので、裁判なしにサクサク処刑していたらしいです。 ローマ帝国は政治犯の場合、磔刑にしていたらしいので、恐らくイエスのモデルとなった人は政治犯だったんじゃないかと。 裁判なしに処刑されたってわけですね。 あら? 聖書と違う。。。。 はい あのシーンはプラトンの国家の内容のパクリですから。 まっ 結局 キリスト教は、人が人を支配 いや 統治するには、恐怖を与え、罰を受けなくないために、支配者に逆らわないようにする っていわゆる マキャベリズム みたいなもんですね。 で、キリスト教はそれを支配者の愛だと言う。  

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 民族的団結を図るには、一神教の神を作り 民俗の団結を強くし、それを支配者が利用するという ことでしょうか? どちらにしても、それを信用すると言う事は人間の心が いかに弱いものなのか分かります

noname#74145
noname#74145
回答No.3

宗教の素人です、素人の特権で言いたい放題をさせていただきます。 ==まずキリスト教が誕生したのは人間の本質である「愛」を具現化するために愛の象徴である神を作り出したと考えれば良いのでしょうか?== これは表向きのキレイ事のような気がします、こうでも言わないと大衆に受け入れられ難いですから。 ==あるいはニーチェが言う様に人間の不安な気持ちを解消し心の 拠り所を作るために神を作り出したという説のが正しいのでしょうか?== こちらの方が説得力があります。 しかし本当の所は為政者が国民をまとめる為、侵略先の人民を手なずける為、作ってしまった団体を維持する為、ピラミッド型の組織の頂点に立つ為と言えばこちらの方が説得力が有りませんか。 特に 「全ての人は罪人です」と言う部分には巧妙さと悪質さを感じます。 貴方方は罪人です→このままでは救われません→救われる方法は唯一つ我々の宗教に入る事です、と。 この中で「いえ、私は犯罪を犯した事は有りません」などと言っても無駄、何しろ生きている事自体が罪だと言うのですから。 これなら理論上全ての人間が対象で実に巧妙な仕掛けです。相手を追い詰めて追い詰めて周りを全て囲って逃げ道を一箇所だけ空けておく、自動的に罠にはまります。典型的な洗脳の技法ですね。 また以前エホバの証人が「ハルマゲドンが来ますわ~」と言っていたのをご存知ですか? 私の家にも何度も布教に来ましたがとても素直に聞けませんでした。 ハルマゲドンが来る→このままでは人類は全滅する→エホバを信仰すればハルマゲドン後に主の国に生まれ永遠の命を授かる→私達は貴方方を救いに来たのです、と。逃げ道はありませんね。 別の言い方をすると 「私達の宗教に入らない方達は皆殺しにして差し上げますわ~」と笑顔で言っているのですから一神教とはすごい物です。 宗教とは健康食品に良く似ています。 人々が本来持っている不安をあの手この手で煽り救われる方法はこれしかない、他の宗教は邪教だから信じてはいけない、と。実際心休まる人も居るでしょうね。 貴方は今健康ではない、病気ではないかも知れないが未病と言って病気の一歩手前、これをほっておくと大変な事になる、そうなる前に当社の○○健康食品を。実際体調が良くなる人も居るでしょうね。 需要が有るから○○教を立ち上げた、しかし信者の数は少ない、では需要を掘り起こそう、不安を煽れば簡単に増える テレビコマーシャルで新製品の売り込みに翻弄する○○化粧品に良く似ています。需要を作って組織を増殖させる、宗教も所詮資本主義経済の一部なのでしょうか。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 宗教を利用する、やり方は良く分かります。 ただ、その一歩前の事が知りたいです

  • negitoro07
  • ベストアンサー率24% (389/1569)
回答No.2

ナショナルジオグラフィックやディスカバリーなどの教養番組を見て聞いた事柄です。 宗教かどうか分かりませんが、人類の進化の過程でネアンデルタール人あたりまで脳が発達すると、死者をともらった痕跡があり、それが死後など目に見えない世界や存在を想像することにつながったのだろうと言われています。 また、宗教は最初は小さな存在です。誰かが既存の思想や迷信をアレンジして、新しい宗教や宗派を起こします。問題は、それがどう広がったのか、あるいは歴史の表舞台に立つのかということのようです。 キリストがいた時代には、彼を良く似た新興宗教家が沢山いたそうです。キリストが成功したのは、大衆を相手にするというマーケティング戦略が当たったためです。 また、宗教が広まる時期は、政治や経済の変動、あるいは天候不順などにより、社会が不安定になった、あるいはその兆候が出始めるときが多いようです。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 ニーチェの説に近い考えですね

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