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宗教は阿片なのでしょうか

マルクスが「宗教は阿片である」といったとよく言われますが。現在でも「宗教は迷信に満ちていて非理性的なもの」という見方をする人も多いようです。確かに宗教にはまり込んで見るからにどうしようもなくなった人もたくさんいますが、それは必ずしも宗教全般の問題だとはいえないのではないかという気がします。阿片にならない宗教、理性と対立しないような(穏健な宗教ということではなくて)宗教というのがあるとすればどういうものでしょうか。

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回答No.4

宗教とは「神仏を信仰し儀式を行う教義」であり、それを組織的に 行うものが「宗教団体」です。日本国憲法上は「信教の自由」として 「宗教を信ずる精神的な行為」は保証されています。 もう少し、広い意味で「何かを信仰する」「あがめる」ことも、宗教 という意味の中に含まれることもあります。 マルクスが言っている言葉の意味は正確にはわかりませんが、 「弱いところにつけこんで入り込み、心を奪い、それをもとめさせ、 反復して行動させ、しかも費用がかかる。それに強く引かれる人ほど 現実が見えなくなってくる」というような意味では? 古来、宗教団体は、どうしても、人の関心を引き付けるために「奇跡」 「再生」とか「回復」「幸福」などを標榜して、信者獲得をしてしまう 傾向があります。このような、一種非合理な面を除いた、「あがめる心」 などが、あなたのおっしゃるものであるとすれば、「祖先礼拝」 とか「自然への畏敬」などが該当しますでしょうか。 しかし、祖先でも「だれだれ」とか自然でも「どこどこ」とかに限定 されてくると、それを利用する人や、商業主義が出てきて、狭義の 宗教になってゆくと思います。 以上

hakujushi
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noname#52467
noname#52467
回答No.7

>理性と対立しないような(穏健な宗教ということではなくて)宗教 理性と対立するようであれば宗教として自分に取り込めません 自分でしっくりとくる宗教はその時点でたとえ他人から見てアヘンであろうがなかろうが正しい宗教になります 人生の迷路・災いに入りこんでしまい、途方にくれる人々が宗教によって、たとえ外部から見てアヘン中毒者のように見えても、本人は救われていることが多いのです マルクス君はそこまでの慣用性に欠けた学者バカともいえます 

hakujushi
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  • 1katyan
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回答No.6

盲信し、それが絶対化し、すべてが正しいと感じたとき アヘンといえます。宗教というのではなく個人の理性の問題ですね。

hakujushi
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  • 1katyan
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回答No.5

理論的に物事が考えられ柔軟な対応ができる。 まあ、中にはその事ばかり気になってしまっている人 カルトに興味に考えが言ってる人もいますね。 宗教団体に属しない。そして公平に目をむけ。自分自信を客観的に見れる人、信じることによって自分の人生を謳歌できればいいでしょう。 団体に入り、団体の言うことを鵜呑みして、考えているもいますが、すごく危険ですね。何も本人は考えることもしていませからね。

hakujushi
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  • komes
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回答No.3

宗教というものは本来は崇高な理念に基づいて発足しますが、時間の推移により色々な解釈が生まれ、複雑化し形式化するものです。 一般大衆が宗教に求めるものはそのようなものに変化します。 従って出発点の理念を持ち続ける人は少数にならざるを得ません。 そして大多数の信者は宗教の実利的な面を重視するようになります。 こうなると宗教は一瞬の愉悦をえるが、長期的には害毒となるアヘンと同じといえるようになります。 私も宗教は大多数の人にはアヘンに成りうるという考えですが、少数のそれを承知の上の人が信ずるものは理性と対立しない宗教と考えます。 要はその人によるものとかんがえます。

hakujushi
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noname#22268
noname#22268
回答No.2

宗教とは「元の教え」であり、「元の教え」とは天地に通じる普遍の原理であり、其れは天体の動きで合意形成する事でした。つまり天の暦を知り、地(足元)の先祖を弔って、蘇り再生する事を祈る行為でした。 其れには此の世にも彼の世にも通じる普遍の原理としての因果律を教える事であり、今風の仮説・進化論を説いてはならない。暦法も今風のカトリック式・偽太陽暦で誤魔化してはならない。 何れも物ではなくて心が主体となる。以上の点から見れば、在来の宗教は殆ど此の「宗教」とは異質の権威、もしくは既得権益、もしくは集金・集票を目的とした宗派拡大を狙う組織となってしまった。 よって此処で推薦できる所はない。ないとすれば以上の点に留意してご自分でご自分の先祖を大切にして祭りをするのが一番と言えます。

hakujushi
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  • Komiker
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回答No.1

>阿片にならない宗教、理性と対立しないような宗教  阿片をどのように定義するかという問題がありますが、一般的に言ってそのような宗教は有り得ないでしょう。なぜなら、宗教は ”これは絶対 ” とするものを内包してこそ成立するからです。一例を挙げて言えば、カトリックやプロテスタント、イスラムなどでは ”神 ” の存在は疑うことのできない事実としているでしょう。 ”これは絶対、これは考える必要がない ” とするものがなければ、宗教は成り立たないのです。  日常の個人の考えかたにも、 ”これは絶対、これは考える必要がないこと ” ( 理性を絶対視することも同じ )とするものがあれば、それは既に宗教の域に入っていると言えるのではないでしょうか (^_^)/~。

hakujushi
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