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田沼意次について
江戸時代に田沼意次が行った政治を「◯◯の改革」と言わないのはなぜですか。
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- oska2
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>江戸時代に田沼意次が行った政治を「◯◯の改革」と言わないのはなぜですか。 平成時代まで、日本の歴史も「勝者の歴史」だったからです。 第二次大戦敗戦後の日本の歴史教育も、「天皇=正しい」という事が基本となっていました。 例えば、蘇我一族は天皇(当時の大王)に反した政治を行ったので「悪人扱い」で「惨殺」されましたよね。 実際は、蘇我氏は「新羅とも友好関係を維持する全方位外交」を行っていたので百済救援軍派遣に反対!していました。 そこで、親百済派の中臣鎌足(百済の王子)・中大兄皇子(天皇即位の野望)に殺害されたのです。 今の教科書は、昭和時代の教科書とは内容が異なっていますよ。^^; 田沼意次も同様なのです。 ワイロ政治など様々な誹謗中傷が、幕府の記録に書かれています。 が、実際は「重農主義から貨幣経済主義」への改革だったのですね。 定信としては、老住職に就任するには「田沼政治を批判」する必要があったのです。 ※新日本共産党(旧立憲民主党)が、与党の政治を(対案も出さないで)全て無条件に批判するのと同じ。 幕府の正史に「悪人」と書かれているので、歴代教育者としても「改革を行った人」とは教育出来ません。 日本は、3大〇〇という語呂合わせが好きなんですね。 江戸時代の変革(享保・寛政・天保)も、教育学者・為政者が「3大改革」と名付けたに過ぎません。
- jkpawapuro
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%94%BF%E6%94%B9%E9%9D%A9#%E4%B8%89%E5%A4%A7%E6%94%B9%E9%9D%A9%E8%AB%96 幕政改革 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 こちらにある通りでしょう。別に吉宗が享保の改革をやると自ら命名したわけではありません。近世経済研究の専門家の本庄栄治郎氏が三大改革としてなづけたから、享保寛政天保の改革が三大改革と名付けられたにすぎません。この三つが選ばれた理由もいかにも江戸時代的、おそらく本庄氏、あるいは当時の日本の価値観にフィットしやすかったからでしょう。 現代人向きである好景気、高福祉の正徳の治や、産業振興新規開発の田沼政治と価値観が違ったのでしょうねえ。
- gunsin
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今で言う、民間活用を、行ったのですが、中途で終わった からでしょう。 ◯◯の改革、◯◯の乱、等々は、後世の学者が命名したので有って、 当事者は、その様な、お題目を唱えて行動をしてないのが殆んどです。 朝廷や幕府からの下々への通達は「◯◯の令」で行われ、記録に 残されるので、歴史学者も名付け親になれず、そのままで呼びます。
- 5555www
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「【東大流】流れをつかむすごい日本史講義」という文庫本の中で、東大教授だった山本博文氏は、 「江戸三大改革と田沼の政治の違いとは?」…「改革」を宣言したかどうか の項で下記のように記述しています。私は、歴史には詳しくありませんので、原文のまま紹介します。 ●正徳の治と田沼の政治はなぜ「改革」と呼ばれないのか 六・七代将軍家宣・家継の時期に政治を主導した新井白石も、さまざまな改革を行っているのですが、これは年号をとって「正徳の治」と呼ばれます。 白石の政治は復古的な色合いが強く、また天皇を尊重したとされることが明治の歴史家に評価され、理想的な政治を意味する「治」という用語が使われるようになったものです。しかし、将軍が「改革」を宣言したわけではないので、「正徳の改革」とは呼びません。 田沼意次の政治は、長崎貿易の改革や蝦夷地の開発を志すなどユニークなもので、まさに「改革」と言っていいものです。しかし、これも将軍が「改革」を宣言していないので、「田沼の政治」と呼ばれます。賄賂が横行するなど社会に乱れがあったので、「治」ともされず、ただ「田沼の政治」です。 大坂の陣以降の江戸時代は、武力を用いた政治抗争はありません。三代将軍家光の頃までは、弟の忠長に自害を命じたり、年寄(のちの老中)の本多正純を改易したりと厳しい楷置もありましたが、それ以降は、政治的に敗れても、職を退いたり領地を削減されるぐらいで済みました。こういう面で江戸時代は、鎌倉、室町の中世社会とは大きく違います。それだけ武家政権が成熟してきたのだと思います。 以上です。参考になるところはあったでしょうか。