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田沼意次 株仲間の解釈?

田沼意次について調べています。 株仲間についての説明で、 重商主義、 農民からコメだけじゃなくて、 商人からもカネをとろうとした…という風な説明がありました。 これを読んで、 田沼の狙いは、財政を立て直す手段の一つとして、収入源を(カネもあわせて)二つにしようとしたのだろうか? そのために、株仲間という風に、商人の世界も組織化(徴税に便利なシステム?)にしたのだろうか? ・・・このように、年貢に加えて「税金」システムを考えた人物・・・ という風に考えてみました。 この考え方のおかしな点があれば、アドバイスをおねがいします。

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  • titelist1
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回答No.2

江戸時代には現代の法人税のようなものは無かったのです。さらに借金の利息は年2割程度の高利だったので、商人は利益を蓄積したのです。 ところが法人税をかける政治的根拠が無かったのです。それは徳川幕府が中央集権国家ではなかったからです。各大名の寄り合いで徳川家がスバ抜けた大名であっただけです。日本は小さな国家の集合体゛ったのです。法人税を誰が取るのかもはっきりしていません。 大商人は法人税に相当するお金で橋建設や神社寄進をしています。中小の商人は株仲間で束ねでお金を積み立てをさせたのです。この金が支配階級の袖の下になり政治が腐敗したのです。 重商主義という着眼は良かったのですが、幕藩体制では無理だったのです。

penichi
質問者

お礼

田沼のポイントがよくわかりました。 ご回答、どうもありがとうございました!

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

概ね合ってはいます。 ただし、 「田沼の狙いは、財政を立て直す手段の一つとして、収入源を(カネもあわせて)二つにしようとしたのだろうか? そのために、株仲間という風に、商人の世界も組織化(徴税に便利なシステム?)にしたのだろうか?」 というのは時間的な経緯が若干違います。 商人からの徴税は運上金とか冥加金と呼ばれる形式で既に存在していました。 株仲間と呼ばれる商人の組織化もすでに完了していました。 田沼意次は、これらの既存の制度を強化して米本位の徴税制度を改めようとしました。 結果として幕府の財政赤字を解消するとともに171万両余の余剰金を蓄えました。 後を受けた松平定信が行った寛政の改革と呼ばれる政策は単なる回顧主義、復古主義で失敗に終わり余剰金の喰い潰しどころか莫大な財政赤字に転落してしまいました。 以降幕府のみならず大名をはじめ武家層は幕末まで財政赤字に苦しみ続けました。 薩摩藩などは500万両の借金を抱えて利息だけでも60万両の返済を求められていました。 薩摩藩の年収は約10万両~20万両でした。 明治維新のドサクサで踏み倒しました。 松平定信が振りまいた悪口雑言が後世まで引き継がれ田沼悪人説が今日まで影を落としていますが、最近の学会では斬新な経済政策として再評価されています。 悪天候が続いたのと、旧来制度にしがみついていた武家層を敵に回してしまったのが不運といいますか政治家として力不足だったことは否めません。 近代的な経済理論がなかった時代ですから止むを得ないかとは思います。 蛇足 田沼意次をお調べとのことですが、説明資料によって評価が180度ことなりますので注意してください。 武士道大好き、お侍大好きのマニアには特に評判が悪いので注意してください。

penichi
質問者

お礼

とても詳しいご説明を、どうもありがとうございました!

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