>日本国内に連合国軍捕虜約3万6千人。
大戦の中~後半期に民間企業の人員不足の補充として本国へ送られた連合国捕虜の事でしょうか?
(開戦初頭では、本土の連合国捕虜はグアム島などの中部太平洋で獲得された捕虜を収容する為の香川県善通寺に設置された1ケ所のみ。)
>1.これら国内へ送られた捕虜は、主に英米兵だと思いますが、どの戦闘(複数)でこんなに多数の兵が捕虜になったのですか。
帝国陸海軍が開戦初期に獲得した連合国軍の捕虜は、マレー(13万人)・フィリピン(8万人)・インドシナ(8万)、香港(1万人)と結構膨大で、本国に送られた3万6千人は極一部と言えるかもしれません。
(因みに、本国へ移送する際に1万人以上が連合国側の攻撃で海没しています。)
→大部分の捕虜は泰緬鉄道敷設(ここだけで捕虜6万2千人が従事)など、東南アジアでの労働に供されました。
>2,佐官・尉官クラスの捕虜はいましたか。
下記に示すように、将官級の人物が捕虜に成っています。
マレー: アーサー・パーシバル
フィリピン: ジョナサン・ウェインライト
香港: クリストファー・マルトビイ
インドネシア: ハイン・テル・ポールテン
>3,これらの捕虜を尋問することにより、軍事作戦上、有益な証言を得た事例はありますか。
「軍事作戦上、有益な証言」の可否については、まさに軍事上の最大機密に属するものですから公開情報から、断定できする事例を出すのは難しいと思います。
(捕虜が、有益な情報(軍事機密)を敵国に漏らしましたなんて記録が残っていたら、その捕虜は戦後に本国で処刑されてしまいます…。)
→ ただ、帝国陸軍は戦時中に連合国の暗号解読に成功(暗号の公開KEYの取得方法などの情報を貰っていた可能性が…。)していることを鑑みると、公に出来ないけど情報を得ていた可能性は否定できません
。
なお連合国に徴用された現地民は、捕虜になった後に帝国陸海軍の要望・支援を得て独自の部隊へと進化し、後の独立闘争の主力と成りました。
さらにインパール作戦など、元連合国の現地兵だったインド兵部隊が直接作戦参加した事例も存在しています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり、「フィリピンの戦い」で最も多くの兵士を捕虜にしたのですね。 マッカーサーもいち早く逃げたのですね。 逃げ遅れた佐官・尉官・兵士からでは効果的な情報は得られなかったということですね。 よく分かりました。 36000人というのは、POW研究会が発表している数値です。 POW研究会(日本国内の連合軍捕虜収容所の研究) http://powresearch.jp/jp/archive/camplist/ 一部抜粋:国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3500人が死亡している。 前線へ武器・弾薬そして食料を運んだ輸送船が、帰路、捕虜と彼らの食料を積み込んだわけですよね。 貨物船の乗員は数十人でしょうから、捕虜数百人分の食料を一緒に積み込んだと思うと、おかしくなって質問しました。