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呉帝国、皇帝孫権

三国志時代ソウヒ劉備に続き孫権も皇帝を名乗りました。 ただ呉の国は有力者が私兵と私領を持った連合体のような傾向があり、あまり比較的旧態とした国だったと思います。 孫権は皇帝を名乗るにあたり、法制度を整備して直轄化したとか、逆に各領主を領主に相応しく王に任じたとか、国体の整備変更が行われたのでしょうか?

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  • gunsin
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回答No.1

魏も蜀も漢王朝の制度を取り入れました、呉も同様です。 地方の豪族との連合体が国の基本構造です。 行政に参画すれば、丞相などの、役職名で呼ばれ、軍隊に参画 すれば将軍と呼ばれ、両方に参画しない協力者は名士となります。 中国の将軍は日本の戦国大名に当たります。 漢王朝の制度が優れていたので、清の時代まで取り入れました。 中華人民共和国も皇帝一族に代って、支配が共産党になり、 軍隊の組織が将軍から国軍になっただけで、漢王朝の制度と同じ 図式に見えます。

jkpawapuro
質問者

補足

漢で刺史や州牧が軍閥化したのは後漢の争乱期であり、前漢は劉家の諸王により支配、後漢は朝廷が各地の刺史を任命する形ですよね。

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