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呉三桂が裏切らなかったとしたら、順帝国(李自成)は世界帝国に成れたのか?
中国史の世界帝国といえば、漢・唐・元・清とありますが 漢は東トルキスタンを支配しただけで除外して、 唐は元々は北方民族との混成国家みたいなものだし、元や清は非漢民族帝国です その間の漢民族国家の宋や明は異民族に苦しめられていました で、仮に明が滅亡した後、呉三桂が李自成に投降し満州族を食い止めていたとすれば その後、順が国力回復して(別に順でなくても、漢民族国家が) 満州、モンゴル、東トルキスタン、チベットを支配するような世界帝国に成れたのでしょうか? 清が世界帝国に成れたのは非漢民族国家だったからでしょうか? それとも遊牧民族の時代は終わろうとしており、ヨーロッパからの文化の流入などで 中国本部が発展するので(中国の人口は漢から明の時代は停滞していたが、清の時代に新大陸由来の作物の普及などで激増します) 漢民族国家でも世界帝国に成れたのでしょうか?
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遅すぎます。呉三桂が山海関の門を開けた1644年には、イギリスはマドラスに拠点を設け、インド支配の準備を着々と進めていました。この後数十年ほどの間に、ボンベイ、カルカッタといった一大拠点がイギリスの手に落ちていくことになります。この頃のイギリスは清教徒革命からチャールズ2世の王政復古と揺れ動いた時代でしたが、にもかかわらず対外的には積極的な活動を続けたことが後の大英帝国を生み出す要因となりました。 漢民族が世界制覇を成し遂げられる最後のチャンスは、おそらく明の永楽帝の頃ではなかったかと思います。鄭和が切り開いた大航海時代を大きな財産として存続させていれば、欧州諸国より先に東南アジア、インドを支配することに成功していたように思います。ただ、中国は本体が十分に大きいので、欧州のように国外に植民地を作る動機に乏しかったことや、永楽帝以降宦官政治が復活して、政権が内部紛争に堕ちて行ったこともあり、そのチャンスは潰えました。この時の失政が、巡り巡ってアヘン戦争にまで至ったのではないかと思います。 ま、李自成もしょせんは流民の王であって、とても中国全土を束ねる器ではなかったようですし、呉三桂の裏切りがなくとも、結局は満州族の侵入を許していたと思いますが・・・。