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足利義満の兄?
ウィキペディアの「足利義満」の項に 『義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた』 とありますが、この義満の前に生まれた男子は、生まれてすぐに亡くなったので、名前がなかったという意味でしょうか? それとも他に嫡男に成れない理由でもあったのでしょうか? ググってみても「義満は義詮と紀良子の長男」のような記述もあり、なかったことにされてるような扱いですが。
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義満誕生の前年に義詮と紀良子の間に男子が生まれたという記録はあるものの、それ以外の記録は一切残っておらず、名前も、いつ亡くなったのかもわからないということです。 誕生翌日の延文2年5月6日、後光厳天皇が祝いの使者として日野時光を義詮のもとに遣わしたという記事が、太政大臣の洞院公賢の日記『園太暦』に出ています。 誕生時に天皇から祝いの使者が来たくらいですから、ちゃんと成長していれば、名前すら記録に残らないということにはならないはずです。たぶん生まれてまもなく亡くなったのでしょう。
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- oska2
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回答No.1
>義満の前に生まれた男子は、生まれてすぐに亡くなったので、名前がなかったという意味でしょうか? 2代将軍・足利義詮は、正室との間に「千寿丸」が生まれています。 が、彼は幼少期(5歳)に死亡しました。 そこで、次男坊の義満が3代将軍の座につきます。
質問者
補足
千寿丸はウィキペディア内の千寿王と同一人物ですよね。ウィキペディアには、それとは別に「義満誕生の前年にも『義詮と紀良子の間に』は男子(名前不明)が生まれていた」と書かれているのです。その人物についての質問です。
お礼
ウィキペディアなので、千寿王と混同している可能性もわずかにあるかなあ とも考えての質問だったのですが、きちんとした記録が残っているんですね。 当時の出生後死亡率は高かったでしょうから、名前さえ付けられない内に亡くなってしまったのでしょうね。 素晴らしいご回答、ありがとうございました。