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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大村益次郎が活躍できたのは、木戸孝允のおかげ?)
大村益次郎が活躍できたのは、木戸孝允のおかげ?
このQ&Aのポイント
- 大村益次郎が世に出て活躍する事ができたのは、木戸孝允が大村益次郎を取り立ててくれたからなのでしょうか?
- もし、木戸孝允が大村益次郎を取り立てていなかったら、大村益次郎は活躍する事は出来なかったのでしょうか?
- 大村益次郎が世に出て活躍する事ができたのは、木戸孝允が大村益次郎を取り立てたからなのかどうかを、また、もし、木戸孝允が大村益次郎を取り立てていなかったとしたら、大村益次郎は活躍する事は出来なかったのかどうか、を教えてください。
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桂小五郎(後の木戸孝允)に推挙されたとはいえ、元々蘭学に精通している者として名を馳せており、高杉晋作や福沢諭吉、大島圭介などとも親交がありました。 (諭吉とはそりが合わなかったようですが) もし木戸孝允に会わなければ、出仕していた伊予宇和島藩士として村田良庵または村田蔵六という名で世に出ていたかもしれません。 木戸孝允と知り合ったのがきっかけかもしれませんが、長州藩に請われて長州藩士になったのです。 長州藩士になった後も高杉晋作に鬼兵隊の指導を要請されていたり、西洋兵学を精力的に指導していたので、木戸孝允が推挙しなくても、高杉晋作や伊藤博文、井上聞多(後の井上馨)らが推挙していたかと。 また、極秘の藩命により上海などに行っていたようなので、他の人物により推挙されていた可能性もなくはありません。
お礼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%87%BA%E5%BA%9C%E3%83%BB%E8%AC%9B%E6%AD%A6%E6%89%80%E6%95%99%E6%8E%88 同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。 桂小五郎に知られなければ、長州藩と言っても、『同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、』とあります。 いくら長州藩と言えども、江戸の長州藩上屋敷では反幕のような真似は出来ないでしょう。 最近で言えば、警視庁の本庁の中で日本赤軍が活動する様なものです。無理です。 桂小五郎と知り合ったから、長州に行って倒幕できたのです。最近で言えば、警視庁本庁の中では日本赤軍は活動できないので、中国やロシアや東南アジアやレバノンに行って活動する様なものです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E#%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E8%A8%8E 晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、益次郎にその指導を要請する。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、益次郎は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名する。「大村」は故郷の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をそれぞれとっている。