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木戸孝允

木戸孝允が明治以後に 辞職を繰り返していたのは それによって 相手の妥協を引き出そうという 作戦ですか?

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  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。日本の近現代史については門外漢ですので、「推量+引用」でお答えしますが、どうぞ悪しからず。 >木戸孝允が明治以後に 辞職を繰り返していたのは それによって 相手の妥協を引き出そうという 作戦ですか? ⇒確定的な断定はできませんが、おっしゃるようなことも関係あったかも知れませんね。進歩派の論客であった木戸孝允のこと、職業上の宿命とはいえ、いろいろなことで見解の相違、意見の衝突、丁々発止の議論などがあった*ことでしょうからね。そのほか、任官をめぐってもいざこざがあった**ようですし、原因不明の脳発作のような持病や大病(大腸がん)を患った、などの体調などが絡んだ場合があったかも知れません。 例えば、その筋の文献(https://ja.wikipedia.org/wiki/)によれば、「大村益次郎、伊藤博文、井上馨、大隈重信ら開化派の官僚を登用して、兵制改革や官制改革など封建制の解体を目指す木戸に対し、大久保は副島種臣らと共に保守的な慎重論を唱えた。両派は兵制改革において対立し、徴兵制による国民皆兵を唱える大村に対して薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置された」*とのことです。 また、同上の文献によれば、「西郷隆盛らが主張する征韓論や、大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には一貫して反対し、またあくまで農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止し彼らの新たな生活が立ちゆくよう構想された秩禄処分が、それぞれ逆効果となる形で実行された時には、これに激しく反発した。そして、台湾出兵が決定された明治7年(1874年)5月には、これに抗議して参議を辞職している」**とありました。

o2b32
質問者

お礼

木戸の場合は病気がありましたね、 それも彼が辞職を繰り返した 原因の一つかもしれませんね。 ありがとうございます。

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