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昭和天皇は軍部に舐められてた?

軍部が暴走出来たのは、昭和天皇が軍部に舐められていたからですか?

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  • oska2
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回答No.1

>軍部が暴走出来たのは、昭和天皇が軍部に舐められていたからですか? と言うよりも、軍部は「天皇直結の組織」だったからです。 陸海軍の統帥権は、天皇が持っていましたからね。 軍・上官の命令は、すなわち天皇の命令と看做されたのです。 ※この点が、軍部の独走を許した要因の一つ。 また、昭和天皇も「軍を信用していた」のですね。 無謀なニューギニア戦線も、天皇の鶴の一声で決まりました。 ※戦死者よりも、病死・餓死の方が多い。 有名な戦艦ヤマト沖縄特攻作戦も、天皇の鶴の一声で決まったのです。 海軍としては「大和は、東京湾で砲台として利用」する作戦だったのです。 ところが、「もう、戦う艦はないのか?」との天皇の声。 元帥の命令ですから、大和は片道燃料で出撃しました。 ですから、軍部は決して天皇を無視した訳ではありません。 余談ですが・・・。 敗戦後、GHQの命令で「昭和天皇は、人間宣言」を行いましたよね。 「朕は、現人神でなく人間だ」 ただ、昭和天皇は「朕は、神様である」と最後まで抵抗しています。 「朕は、アマテラス神の子孫である」と、最後までGHQに抵抗しています。 昭和天皇は神の子孫=陸海軍の元帥=軍部は神の軍隊=暴走! と言う事でしようかね。 令和になれば、もっと先の大戦についての情報が公開されるでしよう。

noname#259238
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noname#247736
noname#247736
回答No.3

「舐められていた」というのは、少し過激な表現だという気がしますが、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」すなわち、内閣は陸海軍のすることには口出しできないという条文を盾に、天皇の存在を軍部に「利用された」、昭和天皇は軍部に「利用された」という表現はいかがでしょうか???  天皇は「現人神」ですから、「意見を言わない」ということもあったと思います。実際に御前会議でも、天皇は発言しなかったようです。それは、天皇が悪いのではなくて、天皇が意見を言わなくても、すべて天皇の御心を察してすべてを決定していくというシステムだったと理解したほうが良いかもしれません。また、現人神であらせられる天皇にああじゃ、こうじゃと発言されても困るという面もあったと思います。私たちだって、上司に、訳の分からんことをああじゃ、こうじゃと指示されると困りますよね。!(^^)!  現に、昭和天皇が、自らの意思・考え示して事態を収束したのは、二・二六事件だけだといわれています。この時には、首謀者である軍人に銃殺刑という厳しい処分が下されています。天皇が、自ら、「軍部の暴走」に巻き込まれないように意思表示したともいえると思います。終戦も、最終的に、自ら決断されたということですが、これは、一部のバカを除いて、昭和天皇でなくても、決断せざるを得ない状況だったことは明らかです。  この「天皇の御心を察して」というところを軍部がうまく利用したのです。昭和天皇は、英米との開戦には否定的だったとのことです。その天皇を、軍部は説得しなければなりません。山本博文氏の「流れをつかむ日本史講義」という著書に下記のような文章があります。私は専門家ではありませんので、少し長いですが原文のまま紹介します。          記 昭和天皇への説得  英米との戦争の準備をしていた軍部は、早く開戦すべきだと考えています。しかし、昭和天皇は、戦線の拡大には否定的でした。日中戦争も終わらないのに、新しい戦争を始めるのは無謀だと考えていました。これはきわめて常識的な考えです。  軍部は、天皇を説得する必要がありました。新しい戦争の意義を、東アジアにおける英米蘭勢力を追い払い、日本の自存自衛を確立し、大東亜の新秩序を建設する、と謳い、英米との開戦が延びればアメリカの軍事的地位が有利になり、日本は不利になるという理論を構築します。  これに関して、昭和十六年九月六日の御前会議での永野修身軍令部総長の発言は、たいへん興味深いものです。 避けうる戦をも是非戦わなければならぬという次第では御座いませぬ。同様にまた、大坂冬の陣のごとき、平和を得て翌年の夏には手も足も出ぬような、不利なる情勢のもとに再び戦わなければならぬ事態に立到らしめることは皇国百年の大計のため執るべきあらずと存ぜられる次第で御座います。  どうしても開戦しなければならないわけではないが、延ばせば延ばすだけ不利になる、と言っているのです。絶対的な物量差のある英米との戦争はあくまで避ける、という方針も立てられたはずですが、軍部はそうは考えませんでした。早晩戦わなければならないのなら、まだ勝つことができそうな今が決断の時だ、という議論にしたのです。  加藤陽子氏は、天皇がこうした日本の歴史に仮託した話に弱かったことを指摘し、後の真珠湾攻撃の作戦計画も「桶狭間の戦にも比すべき」奇襲作戦である、と説明されたことを紹介しています。当時、日本史は必須課目であり、軍人は日本戦史をよく学んでいました。天皇は、こうした軍部の歴史を利用した巧妙な説明に納得させられてしまうのです。                     以上  このことからも、軍部のやり方が、天皇の存在・立場というものを、軍部の都合の良いように、「利用する」という観点から巧妙だったともいえると思います。まぁ、今風に言うと、「舐められた」という表現も「あり」かも知れませんが。

noname#259238
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  • fujic-1990
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回答No.2

 孫子にある言葉ですが「君命に受けざる所あり」というのがあります。  戦場では臨機応変の行動が必要であって、遠くにいる主君の命令でも受け入れず、君命に逆らって行動してもいいのだ! という意味です。  戦場では、遠くに居ます昭和天皇のご命令よりも、直接の上司(小隊なら少尉、中隊なら大尉など)の命令に従って動くことを正当化する言葉です。  軍部はそのように教育されていたので、関東軍の暴走などはこれが原因でしょう。  あとは、反抗期の子の、親に対するような「甘え」でしょうか。  君側の奸が陛下をたぶらかしているのであって、英明なる昭和天皇は我々の赤心による行動を見て、絶対真実に気づいてくださるに違いない、という自分勝手な甘えです。  二・二六事件だったと思います(五・一五事件だったかな?)が、暴走した軍人が大臣などを「君側の奸」として暗殺しました。  軍部のお偉方は、「彼らはやむにやまれぬ義心をもって立ったのだ」として処罰しようとしませんでしたが、昭和天皇は、「朕の股肱の臣たちに対する暴挙は許しがたい。朕自ら近衛兵を引き連れて鎮圧にあたらん」と出馬しようとしました。  あわてたお偉方は、天皇の希望を押しとどめ(出馬させず)ようやく自分たちの手で鎮圧し、しかし軽く処罰したのでした。  こういう甘い処罰ぶり(天皇を怒らせても軍部のお偉方が天皇を抑える)ですから、加えての「君命に受けざる所あり」ですから、気楽に暴走できたものと思います。  昭和天皇の時代、立憲君主制ですから、「どうしたらいいでしょうか?」ならともかく、大臣たちが「…したいと思いますが、よろしいでしょうか?」と上奏してくれば、よほどの事がなければ「諾」としか言えませんでした。  まして「…致しましたが、よろしかったでしょうか?」に「否」なんてあり得ない。時を戻そう、というわけにはいきませんから。  「あれは、どうなったの?」と尋ねられれば、単なる興味・疑問の発露でも、軍部は「ああ、計画を急いで推進しろという趣旨だな」と、自分たちに都合良く忖度したわけです。そして「今朝ほど陛下より『急げ』とのご下問あり」とか日記に書いておく、と。後世それが歴史家の手で「真実」となる。  天皇の一声でどうこうできるほど、単純な政治ではありませんでした。

noname#259238
質問者

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