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軍部

旧陸軍の「軍部と政府の対立」とか「軍部の独走(暴走)」と言う場合の「軍部」とはどういう組織をさしているのでしょうか。 参謀本部や陸軍省は政府側(?)だと思うので含まれないとすると、関東軍や天津軍・朝鮮軍などの方面軍のことを言うのでしょうか。

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  • ベストアンサー
  • been
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回答No.5

軍部という言葉は厳密に定義された学術用語ではないので、広狭いろいろな意味で使われています。陸軍、あるいは海軍を含む軍全体を指す場合もあれば、関東軍など軍の一部を指している場合もあります。具体的にどの組織を念頭に置いているかは前後の文脈から判断するほかありません。ただ、軍部という言葉を正しく理解するためには、当時の軍制を知っておく必要があります。 大日本帝国憲法下における軍制は、天皇の編制大権(帝国憲法10条)に基づく軍政と統帥大権=統帥権(同11条)に基づく軍令の峻別を前提とした2元構造になっていました。軍政を担うのが陸(海)軍省、軍令を担うのが参謀本部(軍令部)です。陸軍省(海軍省)は内閣の一部ですが、参謀本部(軍令部)は内閣(行政組織)とは全く系統が異なる軍令組織です。軍の行動は軍令事項ですから、軍の行動を内閣が決定するようなことは絶対にあり得ません。これは軍部が勝手にそうしたのではなく、大日本帝国憲法が定めた国家の基本構造がそうなっていたからです。当時、軍が内閣の統制を受けないのは当然のことであるばかりか、内閣が軍の行動に口を挟めば、それは天皇の統帥権を侵す越権行為だったのです。 また、当時、陸(海)軍が大部隊を動かす場合は、必ず天皇の承認を受けていました。軍が勝手に(天皇の承認を得ずに)行動することは絶対にありませんでした。もちろん、内閣の承認を得る必要はありません。 軍政・軍令の統一を図るためには、東条大将のように軍政・軍令両方のトップを兼ねる必要がありました。内閣総理大臣、陸軍大臣、軍需大臣、参謀総長を兼務した東条大将は一見独裁者に見えますが、政治と軍事を一つにまとめて戦争を遂行するためにはそれだけの役職を兼務しなければならなかったということです。しかし、これだけの役職を兼務しても海軍を統制することは不可能でした。それができるのは、憲法上、天皇だけだったのです。 当時、軍が内閣を無視して行動したことは事実です。しかし、それは別に悪いことではなく、当時の国家の基本構造に基づく当然の現象でした。軍部と内閣を統一できるのは、憲法上、天皇だけです。当然のことながら、両者の不統一を調整する責任は天皇にあったのです。

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回答No.6

 広義には「職業軍人全体」です。退役者、現役者を問わず軍官僚出身で軍の位階(大将とか中将とか)を持っている者全員を差します。むろん陸海軍省の組織全体、参謀本部、軍令部、あるいは地方軍も含みます。軍部大臣は武官(職業軍人)に限られるとされていましたので、もちろん彼らも入ります。  むろん内部にはさまざまな葛藤がありましたが、全体として彼らは軍部の既得権益を守り、より拡充してゆく方向で外部(軍部以外の政府枢要)に対して一致してあたることが多かったといえます。

  • eria77
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回答No.4

現在でもこの区別は存在するようです。 私服組(背広の政治家) 制服組(軍服の自衛官) 大きく分ければ、決定権を持たない「軍部」が勝手に行った。こう言う意味になります。 現在では、政府「内閣総理大臣」の命令無しで動く事は禁止されていますし、処罰の対象になります。 内閣の決定以外で動く→「軍部の独走(暴走)」です。 これで考えれば >参謀本部や陸軍省も制服組に入ります。 決定権を持たないで勝手に行動すれば、 >参謀本部や陸軍省も責任を負うのは当たり前です。

回答No.3

#2さんの言うとおり、軍部といっても一体ではなかったようです。 しかし、「軍部の暴走」は、やはり満州事変から始まる、関東軍の暴走だと思います。 満州事変の首謀者の一人である石原莞爾は、後に、自らが始めた関東軍の暴走を止めようとしても、とめられなくなってしまった、と聞いたことがあります。そして、柳条湖事件につながっていきます。 最初は、単なる関東軍の暴走が、次第に、参謀本部や陸軍省の将校も巻き込み、「軍部と政府の対立」になったと思います。そして、#1さんが言うように、統帥権なんかが出てくるようになると思います。 上記は、私見です。

回答No.2

軍部も一体ではなかったようですね。関東軍の 暴走(張作霖爆殺、関東演、柳条湖事件など)、さらに 海軍と陸軍の対立、と考えると、構造改革下でのどっかの 役所を考えてしまいます。既得権の保持と権限の拡張......

  • B-rapid
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回答No.1

その参謀本部や陸軍・海軍省が「軍部」の中心なのです。 明治憲法下で軍部が暴走した最大の理由はいわゆる「統帥権の独立」なのですが、高級士官は天皇が直接任命する形をとっていましたし、命令系統も大元帥こと天皇を頂点にした組織でした。 行政を司る内閣も天皇が任命し、形式的には内閣は天皇に助言する立場にあったため、内閣が軍部を統制しようにも、「軍に対して命令できるのは天皇だけ」を盾にして暴走していったわけです。

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