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仏教の"手放す"とは、とどのつまり何?
仏教では"手放す"ことが教えになっていますよね。1-2年前に標高3,500m地点に建てられた寺院(北ベトナム)を訪れたことがあるのですが、対義としての俗世を"情報摂取の場"と置き換えてもいいのだろうなと思いました。情報摂取は、美味いものを食いたいであるとか、異性と付き合いたいといった次元を超えるものであり、くだらないものであっても手放すことは困難だと思うのですがいかがでしょうか。 僕自身は、自分のいる国の経済情報くらいしか"本当に役に立つ"情報はないと思っており、試験的に10日ほど日本のニュースを全く読まず、一昨日、俗な情報に戻ってみたのですが、そこで人が現世に深く根ざす願望の一端を垣間見たような気がします。食とか異性ではなく情報が人の心をかき乱すのだろうし、また執着を生むのだろうなという。 仏教に詳しい方(S学会員を除く)、"情報と俗世"に関しまして、ご教示をお願いいたします。
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- gomapapy
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とても面白い考察だと思います。俗世は情報の坩堝であり、情報によって惹起される迷いは、異性や美食の煩悩の上に位置するもっとも手放すことが困難だという考えは、しかし果たしてそうかと考えます。 俗世間の経済情報のみならず、汎ゆる情報から益を得たいという欲求がまず根源にあると思います。情報が人を惑わすのではなく、人が情報によって惑ってしまうのが実情だろうと考えます。 情報自体は価値中立で、いわば益をもたらすという意味に於いてお金と同じではないでしょうか。ならばと一切の情報もお金をも捨ててみても、益を得て損を捨てたいという根源的な願望までは捨てきれません。 益と損を快感と不快感とに言い換えてもいいでしょう。異性も美食も金も有益な情報も快感を得るための手段だと思えば、すべては上や下の差別なく煩悩の下に平等ではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。私の申し上げたかったことの多くをまとめてくださっていました。 一方、チベットの修行僧(高位)には"夜のテクニック"を学ぶ講習があることなどから性的快楽は一概に"俗世"として扱えないのではないかと思います(西洋史を見ても同様です)。また、彼らの食事に関して、僕らが口にするような(味覚を錯覚させる)塩分が高い食物ではないのでしょう。仮説ですが、"海抜いくつ"というのは、反意的に海~塩(俗世!)からどれだけ遠方に位置するかという話なんだと思います。 自分は仏教徒でもないですし、何か原理主義にかぶれているわけでもないので書きますが、まず、人間が他人を見て"人生は不公平だ"と感じる所以は、人間界の"力"が抽象性(経済)に置き換わっており、且つそれを言葉で共有出来てしまうからでしょうか。では、体力馬鹿だけが生き残る動物界のような集団統治原理(=ある意味ファシズム)を人間社会に再度持ち込むのが正しいかと言われたら、そんなことはないですよね。 続けて、抽象的思考の実験場である錬金術は人類史上どの時代にもありましたし、個人的に経済も性同様"俗世"として切り捨てるつもりはないです。やはり僕には必要でしょうか。 今回の質問で自分がフォーカスしたのは、情報の殆どはくだらないけれども、人が生きながらえたいと願う気持ちの大半は、そんなくだらないものが繋いでいるのかも、といった思いつきです。 ご清聴ありがとうございました。