阿弥陀如来は大乗仏教では重要な位置にある仏であり、さまざまな大乗経典にその名が挙げられます。共通するのは西方の極楽浄土(安楽世界)の仏であるということです。
これはインドでは西を未来を象徴する方位とし、沈む夕日に「Amita<長音>bha(無限なる光明“無量光”の意)」を、来世における永遠なる安楽な境涯から「Amita<長音>yus(永遠なる寿命“無量寿”の意)」と名付けられます。
そこで念仏ですが、「念仏」は初期大乗の基本的修行で「仏を念じる」という観想(瞑想)の一種です。
その方法はさまざまで、「仏の名を唱える」・「仏の姿を見る」・「仏の誓願を想う」などがあります。特に「阿弥陀如来」の念仏は極楽往生の修行とされ、さらにその念仏の一つである「仏の名を口にする」という「口称念仏」が特に中心となりました。そのため通常理解では「念仏=南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依し奉る)とる」でよろしいですが、厳密には違います。
密教では阿弥陀如来(無量寿如来)は、大日如来の智慧(瞑想によって得られる根源的なる力)の一つ「妙観察智(みょうかんざっち)」を表す仏とします。つまり、阿弥陀如来がなぜ一切衆生を救済するか。なぜ阿弥陀如来を念じる者は悉く救済されるか。それは阿弥陀如来が絶えずその人の能力を妙(たえ)に観察し、その人に応じた説法し、そして一切の本性は、まるで汚泥からそれに染まらぬ美しい花を咲かせる蓮花(レンゲ)のように清浄であるということを説くからです。
極楽がなぜ平等にして永遠なる生命の安楽世界であるか。上記のごとく、蓮花に象徴される一切衆生の本性が清浄であると観るからです。よって阿弥陀如来は“観想(瞑想)が自在である”故に「観自在王如来」とも呼びます。
ちなみに“観音さま”こと観世音菩薩(観自在菩薩)は阿弥陀如来の瞑想の実践により衆生救済をされる菩薩です。
補足
早速有難うございます。 さらに、阿弥陀仏の由来も知りたいのですが。 南無が帰依という意味なら、同じように、阿弥陀仏にも意味があると思うのですが。