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荘園から京都へ年貢米を納める。

京から遠く離れた荘園から、京に住む公家や、京・奈良周辺の有力寺院へ年貢を納めるには、やはり船便だったのでしょうか。 そうであれば、日本各地(九州ほか遠方)の荘園から続々と数多の、米を積んだ船が浪速の湊を目指した、というような光景だったのでしょうか。 何か、こんな風にして年貢を納めたという記録はあるのでしょうか。 曖昧な質問ですが、ヒントになるような話でもよいですから教えてください。 よろしくお願いいたします。

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  • D-Gabacho
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回答No.2

東京大学史料編纂所の古文書フルテキストデータベース https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller で「船賃」「駄賃」などをキーワードに検索すると、荘園から領主へ年貢を納めたときの報告書のなかに、海上輸送にかかった船賃や水夫の給料、陸送に要した駄賃などが記されたものがいろいろ出てきます。 たとえば東大寺文書之五(118)観世音寺筑前碓井封年貢送文 には、合計216石9斗のうち年貢として納めたもの(正米)が150石、輸送費用となった分(雑用)が66石9斗で、費用の内訳として船賃料10石5斗、船祭料3斗、奴祭料3斗、梶取功食料7石8斗、水手9人功食料27石、欠料6石、平駄賃料1石5斗、本賃料7石5斗、兵士糧料1石、国津川下賃料5石、水手功物料凡絹45疋と列挙されています。筑前の荘園から東大寺へ納められた年貢米のうち3割が輸送費に消えていること、船を漕ぐ水手や梶を取る船頭の給料がその大半を占めていること、海上輸送だけでなく、川下りの輸送もしていたことなどがわかります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

すばらしいご回答真にありがとうございます。 よく分かります、と書きたいところですが、知らない漢字が多くてびっくりしています。 こんな字があったの!! まず、「合計216石9斗」が読めません。 他にも知らない漢字や用語がいっぱいあります。 駄賃で検索してみたのですが、とてもじゃないが私の手には負えません。 図書館で勉強しようと思いますが、今は新コロのため閉館しています。 開館すれば早速調べてみたいです。楽しみです。 さて、本題ですが、傭船するとどのくらい費用がかかるのか、また海賊対策をしていたのかなど、質問文には省きましたが、大いに気になっていました。 お陰様でよく分かりました。 ご教示に感謝申し上げます。

その他の回答 (1)

  • qazaq
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回答No.1

 こんばんは。ご質問に答えます。以前にも同様の質問をされた方がいました。8年前のテレビ放送の番組でコワモテの苅谷俊介がそれぞれの発掘現場で体験したことを交えてNHKで放映されたものです。  天皇のおふれを早飛脚で届けるため、また納税をいち早く納めるためなどに陸路も使われました。13m幅の道路が造られました。平地も山間部も対象になっていました。道筋には馬屋も宿泊所も設備されていました。708年には「和同開ちん」という日本最古の流通貨幣鋳造の工房の存在の証もあります。  都はなぜ内陸にあるのかについてですが、現在の高速道路の最初の計画の総延長は6500km 古代の幹線道路の総延長が6300kmであり、ルートがこの古代道路とほぼ一致しているのです。   

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、米のような重たい物ではない、特産物であれば、人が担いでてくてく歩いて運んだのででしょう。

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