ANO1さんが仰る通り、「保護する」ではなく正しくは「安堵する」ですね。
まぁ、表向きはどうあれ「貴方がその土地を支配するのを認めるから、私の政治体制を認めてね。反乱したらとりあげちゃうよ」って事ですね。
質問者さまが言う「その人達」というのが、ちょっと分からないのですが。
土地に実際住んでる人は農民や農奴ですよね。
彼らにとっては、領主の変更は「首」がすげ変っただけでしょうね。
良い領主か横暴な領主かは、死活問題でしょうけど、彼らに領主を解任する権利も能力も与えられていませんしね。(たまに一揆とかしますけど)
彼らの事は、歴史では殆ど無視されてます。
考慮されるのは、民俗学とか一揆や反乱で歴史の表舞台に立った場合とかですね。
歴史を学ぶ時には、常に脳の片隅に彼らのことを頭に入れておいて欲しいですね。
まぁ、無視されるのは歴史の殆どが政治関連であり、当時それを仕切っていたのが(現在もでしょうけど)一部の貴族や武士だからでしょうけど。
「その人たち」が武士や役人を指すなら、解任されて追い出されるか打ち首にされるか、逃げ出すかでしょうね。
取り上げられると言うことは、何かしらの政治的ミスを犯したわけですから。
因みに、頼朝が御家人に土地を安堵した経緯ですが、、
以下は私が以前頼朝関連の質問で答えた回答です。
参考URLにはその質問ページを貼っておきます。
===以下・引用==
鎌倉幕府成立以前は、「利害」のため頼朝と東国武士の立場はあくまでも「対等」でした。
そして、「東国武士」たちは「独立国としての鎌倉」を望んでいました。
しかし、頼朝は「朝廷国家内での鎌倉幕府」という位置づけに持って行きました。と、いうのも頼朝の目的が「朝廷国家内での地位の向上」にあったからです。
そして、「朝廷国家内での地位の向上」を目指すには東国武士の暴走はなんとしても阻止しなければなりませんでした。
そこで、「論功行賞」を行い敵方(平家勢力)から奪取した土地を与え東国武士を手なづけていきました。
==引用・以上==
つまり、奪った土地はもともと「敵方」のモノ。
そして、その土地を与えることによって「自分に従えば、あなた方の地位を保証し、良い思いをさせてあげますよ」という保証を与えたわけです。