- ベストアンサー
幕末の水戸藩
水戸藩って慶喜将軍が伏見の戦いなど京・大坂に出張ってたとき将軍を支えるためがんばってたのでしたっけ?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
幕末の水戸藩は佐幕派と攘夷派の血を血で洗うような抗争が激しく藩として行動したりできる状態ではありませんでした。 慶喜の周辺にも水戸藩出身者がいましたが彼らは藩内抗争の負け組が逃げてきたもので、水戸藩として政局にかかわるようなことはまったくありませんでした。
その他の回答 (2)
noname#113190
回答No.2
水戸藩は光圀の影響で、元々尊皇攘夷の思想の藩で、幕末の前夜に、武田耕雲斎を頭に天狗党を作って、京都に進軍する事件を起こしています。 この天狗党の事件は失敗に終わり、武田耕雲斎はじめ352人の同志が死罪になり、267人が島流しや水戸藩預かりの処分を受けたため、人材がいなくなってしまいました。 天狗党を粛清した水戸藩は保守的な諸生党が実権を握りましたが、明治維新が始まると、天狗党の残党が勢いを盛り返し、内部抗争に明け暮れるうちに時代に取り残され、維新を迎えてしまい、明治政府でも軽視されることになったようです。
質問者
お礼
天狗党ですか、ありがとうございます。
- eqw-102
- ベストアンサー率24% (93/381)
回答No.1
恐らく、京、二条城に布陣したと思います。 新撰組は困り、(追い出された) 伏見城で布陣しますが、 ここでも「策」でかみ合わず、別行動に出た為、 一角を官軍に占拠され、 ここで鉄砲の威力が増大した為、敗走したと思います。 水戸藩ってがんばってたのでしたっけ? ご意見無用の狼藉でがんばりました。
質問者
お礼
ありがとうございます。
お礼
分裂状態で全体行動が取れるに至ってないですか、どうもありがとうございます。