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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「桑名」について)

戦国時代の都市「桑名」の説明と外様大名の配置について

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の暮らし図鑑には、「桑名」という都市が紹介されています。
  • 桑名は十楽の津と呼ばれ、自由に交易が行われた都市でした。
  • 尾張藩と現在の三重県の藩に属するかは不明ですが、名古屋の尾張藩は要所として配置された重要な拠点です。一方、現在の三重県の藩は外様大名が配置されていた可能性があります。この配置の理由については不明です。

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  • eroero4649
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回答No.1

1 https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E6%A5%BD-841816 こちらの説明にある通りです。今風にいえば「ヘブンスシティ」てなものでしょうね。 >現在の三重県のほうの藩が、私の記憶が間違っていなければ、「外様大名」が配置されていたように記憶しています。……なんの本で見たのか探し出せませんでしたが……私の記憶違いだったのか。 津藩のことでしょう?藤堂高虎ですね。実はご先祖様がこちらの家臣でした。 藤堂高虎は築城の名人としても知られていますが、8回も主君を変えてそれでいながらそれぞれの主君に絶大な信頼を勝ち得たヘンな人です。秀吉、家康の信頼も絶大でした。 主家が没落するのを見定めて新しい主家は伸びるところ選ぶこと機を見るに敏で、その度に焼け太りみたいな感じで出世していったので、昔も今もそれを「長いものに巻かれるのが上手ですこと」と思っている人はいます。ちなみに津藩はあの鳥羽伏見の戦いで幕府側から寝返ったのが戦いの勝敗を決定づけたので「主家を切り替える上手さは家風だな」と揶揄する人は当時からいたようです。 2 桑名を統治していたのは桑名藩で、初代藩主は「家康に過ぎたるものが二つあり」といわれたうちのひとつである、本多平八郎忠勝です。徳川家きってのターミネーターをここに配置したことは、どれだけ家康がこの地を重視していたのかの証左でもあります。 後に本多家は加増されて転封されたので、その後は一族衆である松平家が藩主となっています。ですので桑名は全然外様の地にはなっていないです。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 1 実はご先祖様がこちらの家臣でした。……そうでしたか。生まれてくるのが遅すぎましたか???それとも、「武士としての名誉」がしっかりと「世襲」されているのでしょうか??? 藤堂高虎ですね。~~8回も主君を変えてそれでいながらそれぞれの主君に絶大な信頼を勝ち得たヘンな人です。秀吉、家康の信頼も絶大でした。……かなり優秀だったんでしょうね。もともとの武士の主従関係というのをしっかり実践していったんですね。 主家が没落するのを~~「長いものに巻かれるのが上手ですこと」と思っている人はいます。……「長いものに巻かれるのが上手ですこと」笑笑「長いものを巻く」のがうまかったのでしょう。「生き延びる」だけでも大変な時代に、「焼け太り」までするとは、脱帽・啓礼です。藤堂高虎に興味が湧いてきました。少し調べてみます。 「主家を切り替える上手さは家風だな」と揶揄する人は当時からいたようです。……260年間も「家風」を守り続けてきたとしたら、もう揶揄の対象外だと、私は感じます。 2 桑名を統治していたのは桑名藩で、~~どれだけ家康がこの地を重視していたのかの証左でもあります。……そうでしたか。「桑名藩」があるのを全く知りませんでした。家康の配置に抜かりはなかったのですね。 その後は一族衆である松平家が藩主となっています。……そういえば、ぼんやりと思い出しました。たしか幕末に、会津藩とともに、……。 恥ずかしながら、とんでもない「無知」な質問でした。