関が原合戦から約30年間の九州
関が原の戦い後、徳川家康、秀忠は一族や譜代を各地に配置して徳川の支配体制を固めていきますが、江戸時代初期の九州の押さえはどうなっていたのでしょうか?
1632年に譜代の小笠原忠真が現在の福岡県にあった小倉藩に藩主として入り、西国譜代大名筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任にあたって外様大名を監視したとWikipediaにあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%97%A9
小笠原忠真の小倉藩主就任以後なら譜代の高力忠房が島原藩主となったり、大久保忠職が唐津藩主になったり、松平忠昭が府内藩主となったりしてどんどん譜代や松平家の大名が九州に増えているから徳川の力が九州に及んできているのがわかるのですが、小笠原忠真が小倉藩主に就任する前の関が原合戦から約30年の間、九州の外様大名の監視とか押さえとかはどうなっていたのでしょうか?
長崎奉行がその役にあったのかなと思ったのですが初期の頃は船の入港する忙しい6月に長崎に来て10月には江戸に帰って1年を通して長崎にいるわけではなく、1年を通じて長崎に奉行がいるようになったのは1638年からだということをWikipediaで読みました。
調べ方が悪いせいか徳川幕府の九州の監視体制というか押さえの配置がわかりません。知っている方どうかお教えください。
あと福岡藩の黒田家52万石、熊本藩の加藤家52万石や薩摩藩の島津家56万石などかなり力のある外様大名が複数いる九州に、なぜ徳川家康、秀忠は徳川一門の誰かを配置して押さえにしようとしなかったのでしょうか?尾張、水戸、紀伊、越前、越後(六男忠輝は改易されちゃいましたが)と本州ばかりです。九州に徳川一門の誰かが入れば大きな押さえになると思うのですが。
お礼
ありがとうございます。 一応考えたのですが、白黒印刷ということになるので(カラーは金銭的に無理)見にくい部分が出てくるので最終手段にしようと思っているので、コンピュータのカラー印刷にしたいと思っているのですが・・・