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黒船来航について
ペリーが4隻の軍艦を連れて浦賀へ来航しましたが、 当時、日本は鎖国していたとは言え、オランダなどとは 貿易していたので、その経由で、ペリーの来航は 事前に知っていたと聞きます。 でも実際にペリー艦隊が来たら右往左往の大騒ぎ。 なぜこのような失態を演じてしまったのですか。 甘く見ていたとか、時期が大幅にずれたとか なにか手違いでもあったのでしょうか。
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「黒船来航で日本全体が大騒ぎした」ということは、どの歴史書にも書いてあることなのですが、それを「誰が?何故?大騒ぎしたか?」などとよく考えてみると誤解が多いことにこの質問を見て、気がつきました。 大騒ぎ、右往左往の原因を分析してみますと、黒船が来たことに驚いたわけではないと思います。 アメリカ(黒船)が「日本に開国を要求したことに対して、どう対処したらよいか?その対策について右往左往した。」と言えます。 黒船の装備している大砲の射程距離が圧倒的に長く、もし戦争になれば江戸は火の海にされることは誰にでもわかっていたので、幕府は穏便に開国しようとしたのですが、外国を武力で追い払う(攘夷)という過激派が暴れたために、国内対立が起きて大騒動をしたものです。 攘夷派はいわば非常識派で、大和魂で追い払え!というような精神主義者でした。 こういう過激派いたことが大騒ぎの原因でした。 幕府は黒船との交渉を開国に向けて地道に進めていたのですから、それに任せておけば、右往左往することは無かったのでした。 (この幕府の実務力を評価した本として、井上勝生著岩波新書「幕末・維新」があります。) 西洋の軍事力に脅かされないためには、日本全体が一つになって、備えるように変わる必要性はあったのですが、これについても、そのために有力大名の話し合いが着々と進められていましたから、大騒ぎをして、幕府を倒す必要などはありませんでした。 ここで私が「大騒ぎ」と言っているのは、明治維新のことなのですが、わざわざ維新などと言うことをしなくとも、幕府がそのまま開国、近代化政策を進めれば、右往左往せずに日本は近代化出来たに違いない、と考えます。 幕府の対黒船外交はしっかりしたものであった、少なくとも薩長の攘夷派よりはましであったことは明らかです。 明治維新の元勲たちは若いころはすべて攘夷派であって、現実離れをした考えを持っていた過激派でした。 そういう彼らの間違いは、維新後の日本史作成に当たって抹殺されて、逆に幕府が腐敗していたなどという物語になって、今日に至っています。 結論として、大騒動、右往左往は、攘夷派のせいです。 つまり明治の元勲たちの若いころの攘夷思想が大騒ぎの原因でした。 彼らが権力を取るために騒いだ自作自演のクーデター、というのが明治維新の本質と言えます。 これを現在の日本に当てはめますと、北朝鮮が怖い、中国が怖いと言う人々が攘夷派にあたります。 やたらと民衆の恐怖心を煽って、権力を得ようとする人々が居なければ、今の日本は本当に平和な国なのです。 狼が来た!と民衆を脅す狼少年が、いつの時代にも居て、人々を対立させ、大騒ぎの元を作るのです。
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- 小林 哲夫(@kobatetu01)
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NO8の補足説明です 質問者さんはどうしても明治政府が自己正当化のために言いふらした、「幕府を倒さなければ日本は近代化出来なかった」というデマの先入観を抜け出せないようですね。 ではこういう風に考えてみてください。 世界情勢から考えてこの時に日本は開国する以外に道は無かった。 世界の近代化の流れに乗るのにちょうど良いときだった。 今から考えても鎖国を続けていなくて良かった。 幕府のとった、開国政策が正しかった、と言うことです。 こう考えると幕府のペリーとの外交交渉はなかなか見事なものだった、と言うことがわかります。(井上著岩波新書を是非読んでください。) 幕府は決してへっぴり腰ではありませんでした。 そして他方、攘夷派などというのはとんでもない非常識な人々だったと言えます。 攘夷派がいなければ幕府は、見事にペリーと交渉して、日本は混乱なしに開国し、その後も順調に近代化できた、と考えます。 つまり幕府はしっかりしていて、薩長の方が非常識だったことをまず理解する必要があります。 だから幕府にそのまま任せていれば、日本は順調に近代化したに違いありません。 もちろん幕府制度はゆっくりと解体して、有力大名による合議制になり、それから議会制度の導入へと平和に変わっていく、ということです。 攘夷思想でもって幕府を倒して、倒すや否や開国・文明開化に転向するなどと言う破廉恥で、無定見な薩長政府(岩倉具視も含む)をなぜそれほどまでに弁護するのですか? 慶喜が大政を奉還したにもかかわらず、無理やり戦争に持ち込んだ薩長の横暴をどうしてそこまで弁護できるのか、私には理解できません。 それは100年前の明治政府に未だに騙されているとしか言い様がありません。 次に質問者さんは英仏の干渉を過大評価しています。 このとき幕府、薩長双方ともに外国の干渉を受けてはいけないという常識を持っていましたから、問題ありません。 日米安保で安心している現在の日本人の方がどうかしています。 結論 幕末の黒船による動乱と言うのは、攘夷派がいなかったら、起こらなかったものです。 攘夷と言うのは時代に逆行する思想であり、その間違いをまじめに反省しない人(明治政府)の言動を信用してはいけません。
お礼
度々の回答、誠にありがとうございます。 小生の時代認識の根本は、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」 が大本で、竜馬を中心に考えると、武力による倒幕は 竜馬の反対によって潰えたかも知れず、薩長は大恩ある竜馬が 今度は目の上のたんこぶになりました。 竜馬暗殺は西郷、見廻組、新撰組等諸説あり、敵に 殺されたのか、味方にやられたのか分かりませんが、見廻組の 佐々木只三郎が一応犯人とされてます。 しかし、西郷らにとってはこの僥倖で手枷足枷が取れ、黒幕の 腹黒貧乏公卿こと岩倉具視に操られだしたという認識です。 それでフランスは幕府を助ける結果日本を乗っ取ろうと画策し、 イギリスは薩英戦争の後薩摩と組んでフランス排除=倒幕の 後押しをした、となるので、この一連の騒動はペリー来航に 端を発していると思い広く意見を求めた次第です。 もっと勉強します、またご教授願えんことを。
- 小林 哲夫(@kobatetu01)
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NO4の補足説明です。 攘夷思想というのは、今から考えれば完全な間違いであったことを頭に置いて読んでください。 明治政府は自分たちの間違いをあいまいにして、以後の歴史を作っているので、日本の近代史がわけのわからないものになっています。 以下では、質問の趣旨を「大騒ぎ」に絞って答えます。 大騒ぎは、大政奉還の前と後で性格が変わった、と考えます。 1、まず大政奉還(1867年)前 1853年ペリー来航から63年の薩英戦争、64年の馬関戦争までの十年間は、攘夷を口実にして幕府をいじめていましたので、これが大騒ぎの中身でした。 世界情勢から考えれば、開国を決意すべきときに、幕府に攘夷をしろと要求したのですから、とんでもない要求であり、また実際的にも不可能な要求でした。 しかしおっしゃるように戦争に負けて攘夷が不可能であることを薩長の指導者は悟ったようです。 しかしそれまでの攘夷論の手前、簡単に変えることが出来なかったので、過激な攘夷論者は残っていました。 また従来の攘夷論での幕府いじめも続いていました。 この間(黒船から大政奉還まで)の薩長などの思想は、「反幕」という言葉で表現できます。 この「反幕」の目的は、「自分たちも政治に参加させろ!」と言うものでした。 (これは反幕であって、まだ倒幕ではありませんでした。) この目的に沿って、大政奉還を慶喜に説得したのが阪本竜馬で、その説得は成功したのですが、ここで薩長勢力は竜馬を裏切り密勅を捏造して、戊辰戦争を起こします。 このころ薩長勢力は倒幕を目的と定めて、幕府を種々挑発したり、倒幕に邪魔な阪本竜馬を暗殺(私見です)したりしました。それ以前には、慶喜を信頼していた孝明天皇を暗殺しました。(これも私見) 私は大政奉還を以って、幕末の動乱は終わらせることが出来たと考えます。 ところが権力欲に目がくらんだ、薩長勢力によって戊辰戦争という別の大騒ぎ(戦争)が起こされました。この戦争は日本にとってまことに無駄なものでした。 2、大政奉還以後の大騒ぎ これはまず戊辰戦争のことです。 薩長勢力は大義名分の無い戦争を起こして、権力奪取に成功しました。 恭順の姿勢を明らかにしている慶喜に対して倒幕の戦争を仕掛けるようなことは、今から考えても全く理由がたちません。 薩長勢力が戦争に勝利して権力を確立して以後の文明開化は、世界の近代化の波に乗ったもので、たとえ幕府が続いていたとしても、また誰が担当しても問題なく近代化できたことだと考えます。 しかし明治政府の強引な権力奪取を真似た、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争などの大騒ぎが終わるのは1877年のことになります。 以上、黒船が日本に大騒ぎを起こしたのではなくて、攘夷という間違った思想が大騒ぎを引き起こしたものです。 なお黒船に庶民が大騒ぎした、ということもありましたが、これは珍しいものに対する好奇心で、云わばお祭り気分で大騒ぎしたもので、これはむしろ平和な景色です。沢山の小船が黒船を取り巻いて見物した、と言われています。
補足
最初の質問からかなり逸脱してしまうのですが、 竜馬暗殺は諸説あり、確かに庇護者の薩摩(西郷隆盛) が黒幕説もあります。 幕府を叩きのめしてやろうと鼻息荒くしている所へ 竜馬が大政奉還を唱え、幕府が無くなってしまった。 でも次の国体に、慶喜を総裁にした列侯会議なんぞを 立ち上げられたら結局徳川の天下は変わらないということでしょう。 結局、倒幕=徳川支配の否定とすれば、大政奉還をもって 幕末動乱はなおエスカレートし、徳川を排除しなければ 治まらないところまで行ってしまったのではないでしょうか。 とすれば戊辰戦争は徳川家への個人的恨みとでもいうべきもので そんなものは大義名分にはならないでしょうが、無駄とは思い ません。 幕府は自分で鎖国政策を取りながら、開国となると海の向こうから 来た軍艦の威容と大砲の脅しで、無理やり手篭めにされるように 相手に屈服しました。こんなへっぴり腰野郎がまだ国政を仕切ろうとは 許し難し、と徳川排除の意識が作用するのは当然の成り行きでは。 黒船来航によって、誤った攘夷思想が一新されたのはその通りとして 幕末動乱から維新にかけて、そのまま徳川政権では近代化は遅れたと 思うのですが、回答者様は近代化の時期に大きなズレはないと 考えられますか。また政治の中枢に徳川が残ったら、幕府の後ろ盾の フランスはどういう行動にでたと考えられますか。 岩倉具視の暗躍も含めてお答えいただければ幸いです。
- 畑山 隆志(@deltalon)
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「知らしむべからず」 最近まで(あ、いまでもか)の役人どもの態度が原因。 いまでも「地震の被害予想」を不安をあおるとか云って、公開させないようにした馬鹿がいる。
お礼
大本営発表は終いにはウソ八百が多かったのですが、 事実を知らせないのも根本は同じですね。 回答ありがとうございます。
- jkpawapuro
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幕閣はペリーの来航について、その目的も含めかなり詳しく察知していました。 というのも情報元はオランダですが、オランダも現状維持を望む側なので、可能な限り詳しく通知してきたわけです。 庶民がペリー来航を知らなかったのは、単純に幕府がそれを周知しない方針だったからです。
お礼
ゴルゴ13がこう言ってます。 「非常時に恐ろしいのは危険そのものより それを恐れるものが引き起こすパニックだ」と。 いくら周知徹底したつもりでもとんちんかんな人は いるもので「聞いてないよ~」となるのが関の山、ですね。 回答ありがとうございました。
- PENPENMAKKY
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No.1です >太平の眠りを覚ますジョウキセン たった4はいで夜も寝られず 大正時代にできた川柳がどうかしたのでしょうか? 江戸時代に「ジョウキセン」などというお茶は存在しません 私が確認したのは 黒羽文書で似たような文書でしたが、明らかに来航後の混乱を皮肉った内容でした
お礼
あげ足をとるような方にはつきあい兼ねます。 ごくろうさん。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
ペリー来航を知っていたのは幕府の一部の人間だけです。 彼らはペリー来航に備えていましたが、それを知らない庶民・武士・大名どもは事前に知らないので大騒ぎでした。
お礼
当時と現代では情報伝達の方法、早さは比較にならないので、 周知徹底は無理ですが、福島第一原発事故を例にとると 実情は政府の一部の人間だけが知っていたかというと、実際のところ 政府も東電もよく分かってなかったのでしょう。 でもって、不確かな情報をそれも小出し小出しでいうから国民を 惑わせ、冷温停止になったというのもホントかどうか。 このように広く早く情報が伝わっても混乱しているから、 当時、何も知らない庶民などは、例えば爆破予告があって爆発しても ビックリするのに、予告なしにいきなり爆発したら、そらもう 尋常な驚きようではなかったのでしょう。 回答ありがとうございました。
- eroero1919
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ペリー来航以前に、ナントカ号事件、と呼ばれる外国船が近づくような事件は何度も起きていたんですね。ほとんど漂流してきたようなものから、大黒屋光太夫のような漂流民の帰国に関わるようなものまで様々です。特に貿易関係を結ぶことに熱心だったのはロシアでした。 で、実はロシア人というのは実に話が分かる人たちで、幕府が「江戸に来てはいけません。どうしても交渉したいなら長崎に行きなさい」といってくるのを基本的に守っていたのです。大黒屋光太夫の帰国のときは、いちいち長崎まで回っていられないですから根室で交渉しましたけどね。 確かにペリーが来るというのはオランダから予告されていました。だけれども当時の幕府の反応としては「昔からそんなこといわれていたけど狼少年だったこともあったからな。軽々しく信用すべきじゃない」とか「来たら来たで長崎に追いやってのらりくらりとかわして断ればいい」と甘く見ていたのです。 ペリーが幕府に衝撃を与えたのは、幕府が来るなといっているのにお構いなしに江戸湾(東京湾)をずんずん奥まで進んできたうえにドッカンドッカン大砲を撃ち鳴らしたことです。アメリカ側は空砲を撃つことについて「礼砲だ」とか「祝砲だ」とかそういう名目をいってきたのですが、まあ要するに恫喝してきたわけです。教科書通りの「砲艦外交」ってやつですね。 それで、幕府は気づいたのです。来るな来るなといってもずんずんやって来る軍艦を止める術がないってことにね。そしてもし江戸にやってきて江戸城に艦砲射撃をしてきたら止める術も反撃する術もなく一方的にやられてしまうってことに。 「いやこれはまさに『想定外』でした」という事態になったのです。え?私は今の政府の話をしているんじゃないですよ。江戸時代の話をしているのです。 それでとりあえず親書を受け取りますよといったのですが、例えばロシア人が相手だと「この人が正式な大使です」とかなんとかいって適当な奴に交渉役を任せればその人に親書を渡してくれたのですが、カウボーイの国は違いました。 「バカヤロー、お前みたいな木っ端役人に渡せるか。3日待ってやるからちゃんとした奴を連れてこい。来なかったら俺が直接江戸に向かって海兵隊上陸させて力ずくで直接将軍に渡してやる」 と言い出したので震え上がっちゃったのです。なにせ、本当にやりかねなさそうな奴だったし、当時の江戸幕府から見れば圧倒的な軍事力を持っていましたからね。 その本質は、原発事故のときと同じなんです。「本当に起きると困るから、考えない」のです。原発事故もあんなシリアスな状況になるとは誰も考えなかった。シリアスな状況になることはあってはいけないので、あってはいけないからそれに対して備えるということは「起こり得るということを知っていた」ということになりますよね。「原発は絶対安全なはず」だから、深刻な事故を前提とした訓練やシミュレーションを考えること自体がいけないことだ、とこうなったわけです。 それと同じで、もし本当に江戸湾に軍事力を頼みに力ずくでやってこられたらなす術がない。それは幕府の沽券に関わることだからあってはならない。だけど、備えるってことはそういうことがあり得ることを受け入れることになるから、考えない、というわけです。 それで考えていなかったので、実際に起きてしまうと狼狽してしまうってことなんですね。
補足
NO1の方は >事前に浦賀・富津台場に120門からの台場砲を設置し、 ペリーは挨拶と湾内の測量(←これが曲者)して帰っただけです とのことですが、備えあるが憂いあり とはどうなんでしょうか。 原発事故の例えは分かりやすくよかったです。
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
ペリーの初来日そのものは全く以て右往左往しておりませんが… 事前に浦賀・富津台場に120門からの台場砲を設置し、ペリーは挨拶と湾内の測量(←これが曲者)して帰っただけです 問題は「来年また来るからお返事よろしくネ!」と、言われたので返事をどうするかで右往左往したのです 今までは「外交関係を作りたいデス」と言っただけでした。だからその場で断りました。ペリーは「大統領の親書デス」とお手紙を届けにきただけです。お手紙を貰ったら返事をせねばなりません。断るなら断るなりの理由を説明せねばならないのです。それが思いつかなかったから1年間右往左往しました。
補足
太平の眠りを覚ますジョウキセン たった4はいで夜も寝られず という狂歌は 当時の右往左往ぶりを表現しているのではないのでしょうか。 また国策として鎖国をしていたから外交関係を拒否したのか、 孝明天皇が外国人嫌いなのを慮ってのことなのか、 どうなんでしょうか。
補足
ペリー来航時はまだ倒幕云々という空気じゃありませんが、 その後近代的軍隊を持とうと考えた幕府は、フランス式を取り入れ フランスを後ろ盾としたが、これはフランスが日本を植民地に するための策略であると、イギリスが言いふらして、これを阻止 するため倒幕、維新につながると、かいつまんで言えばこうなると 思うのですが。 攘夷が無理だと実感するのは薩英戦争を戦った薩摩が肌身で 分かったはず。それまでは攘夷派でも薩摩は方針を転換したのでは。 また薩長は第二次長州征伐前に同盟を組み、ガチンコで戦ったら 幕府軍が思いのほか弱く、もうこのままいてまえ 的に戊辰戦争に 突入し、幕府瓦解、維新、薩長の天下となったのは結果であって、 彼らに天下取りの野望があっての倒幕とは思えないのですが。 このへん、いかに。