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【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静
【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静岡県下田市に初上陸したのでしょうか? 当時の静岡県下田は何があったのでしょうか? アメリカは緻密に計算して、初上陸場所を静岡県下田に選んで上陸して来たとしたらその理由はなんですか? それともたまたま上陸したら、静岡県下田で、江戸幕府の本陣がどこにあるのか知らずに前偵察なしで来たのですか? なぜ下田に上陸したのか理由を教えてください。
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江戸幕府が下田を指定したのです。ペリー御一行は「この辺りでやろうや」と浦賀に来航したのですが、幕府は浦賀が江戸から近すぎて、しかも海軍力も対艦攻撃力も皆無の江戸幕府にとって交渉が決裂してペリーが江戸湾(東京湾)から江戸市内に直接攻撃をかけたら止める術がない上に、浦賀から江戸まではすぐ行けてしまうのでいざというときに将軍が避難したり江戸防備の手配が間に合わなくなることを恐れたのです。下田からならちょいと時間がかかりますから手が打てるかもしれないじゃないですか。 あとは、黒船の周りに観光客が押し寄せてしょうがなかったというのもあったらしいです。町人が船を出して見物に殺到したそうで、わざわざ船をチャーターしたお金持ちもいたそうですよ。ペリーもあまりにも日本人が「びびらない」ので戸惑ったそうですよ。根っから平和に慣れた(平和ぼけしていた)日本人には「こいつらが攻撃してくるかもしれない」ってのはあまり考えなかったみたいです。 幕府の強い要望で渋々下田に回航させられたペリー御一行でしたが、日米交渉の最初の席で幕府側が挨拶代わりに「このような草深き田舎で、ロクなおもてなしもできず・・・」と日本流の謙遜をかましたところ、アメリカ側は「おおそうか。お前らもここが不便と自覚してるじゃないか。じゃあ交渉の場所を変えよう。ここは不便にも程がある」とアメリカ流に言い始めて幕府側大慌てで、危うく交渉はのっけから暗礁に乗りかかったという一幕もあったそうです。
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ペリーが来たのは浦賀です。ここには浦賀奉行が置かれ、江戸湾に入る船舶の監視・積荷の検査を行っていました。つまり、海の関所ですね。 下田は、浦賀の前に奉行所(関所)があった場所で、ペリーの浦賀来航の数年後に、再度下田奉行が設置されました。 ペリーの初上陸は横浜でしょう。 その後、領事ハリスは下田にいましたが、浦賀より江戸から遠い下田の方を幕府が選択したんだと思います。
お礼
みなさん回答ありがとうございます そうだったんですね