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「清濁併せ呑む」感覚について

仕事においても、趣味の活動においても、人間の生命活動においても、「楽しい」とか「他者に貢献する」という「良い」一面だけではなく、必ず逆の一面があるように思います。 例えば、活躍すればするほど、競合他社を蹴落とすことになってしまったり、寄付をすればするほど、依存する人間が出てくる可能性があったり、豊かな暮らしをすればするほど、地球を痛めつけてしまったり、という風にです。 それでも、その「活動」を続けるのであれば、「清濁併せ呑む」感覚が必ず必要になってくるように思います。 最終的には、「ああしたい」とか「こうしたい」という理想や目標を捨て去って、一切の個人的な考えを放棄することになるのではないかな、と考えています。 どう思いますか?

みんなの回答

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.6

先日の台風でホームレスを受け入れない避難所がありましたね。 …あの事例が、「清濁併せ呑む」ことを拒絶した一例になるのではないかと思います。 避難所とは「人の命を守る(清)」という大前提の下に設けられていると考えて良いでしょう。 普通に考えたら、人の命(清)に差別があってはならない筈です。 ところが、実際には差別が加えられてしまいましたね。 その理由は「不潔感(濁)」だったろうと思います。 実際に検査した訳でもなく、「感覚」と「住所を申告しない(濁)」ことだけが断った理由でしたね。 見た目が「普通(清)」だったなら、 たとえ「風呂に入ってない」人でも、 たとえ「体臭が強い」人でも、 たとえ「軽度の感染症」でも、 たとえ「住所不定の犯罪者」でも、 不都合な事を隠して(濁)いれば受け入れ(清)られた筈です。 このように「不都合を隠している(濁)」可能性があっても、 非常時であることから『不都合(濁)も深く追求せずに受け入れる(清)』ことが重視されるべきであり、 それこそが「清濁併せ呑む」ことだろうと思います。 先の避難所の事例は、 「清濁併せ呑む」こととは逆の事例でしょう。 非常時という清濁併せ呑まなければならない状況の中で、 「人の命を守ることが『清』」であるべき立場なのに、 「不潔感が『濁』」として、逆の立場からから判断を下した一例でした。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.5

以下に、言葉では理解しにくい解説を加えます。 「清を呑む」のが当然という前提がなければなりません。 …目的自体が「清」であることを示しています。 そこに、 「濁も併せ呑む」という、 やむをえない「矛盾の存在」を示した表現です。 目的が「濁」である場合に「濁を呑む」ことは矛盾になりません。 目的を持った行為に「清」という表現を用いる場合は、目的自体が「清」であるという「目的の正当性」が問われます。 自己利益を目的とする行為には「他者の犠牲を目的」つまり「濁」を前提とする場合もあり、 自己利益を「清」とする前提が成り立ちません。 「清」を前提としない、つまり「濁」を前提とする行為に「清を呑む」という前提は有りえなくなります。 「清濁併せ呑む」という表現は、 他者の犠牲を「目的の前提」としない場合の表現となります。 目的の前提が「清」である場合に於いても、 手段や経過において「濁」とされる矛盾が発生することもあり、 そのような場合において、「濁も併せ呑む」必要性が生じることを指し示した表現です。 「呑む」という表現は、 「自らに受け入れる」ことを示しています。 「他者を貶める」こととは逆の意味合いが含まれます。 そのため、 自己利益を目的とした行為に対して「清濁併せ呑む」という表現を用いてしまうと、 前提の段階から矛盾を含んでしまうことになります。 「清」の行為は「善」、 「濁」の行為は「悪」、 …そう言い替えたほうが理解しやすくなるかもしれません。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 よく分かりませんでした。

回答No.4

 経済活動をすると、二酸化炭素が出て温暖化という、便利が危機を生むという清濁でしょうか。政府は成長戦略は止めないと言いますが。  ある本を読むと、「功利主義は人々の幸福の最大化を目指す。多くの人が幸福になるように。そうすると、トロッコ問題で、制御不能のトロッコの先に5人の作業員がいる。向きを切り換えれば、1人の方に向き、1人の犠牲で済む。あなたは切り換えるか?  民主主義政治も今は多数決しか決定権はないですが、組織論的には、あまり長期権力が続くと中が澱んだりするので、未知でも新しい組織にやらせてみようかと、スポーツなどではありますね。政治は全部数の論理なので、ポピュリズムにもなる。最大幸福、大量生産のジレンマとは何なんでしょうか?

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >経済活動をすると、二酸化炭素が出て温暖化という、便利が危機を生むという清濁でしょうか。 はい、そのようなことです。 >功利主義は人々の幸福の最大化を目指す。多くの人が幸福になるように。そうすると、トロッコ問題で、制御不能のトロッコの先に5人の作業員がいる。向きを切り換えれば、1人の方に向き、1人の犠牲で済む。あなたは切り換えるか? 功利主義は、必ずトロッコの問題に直面しますね。 >民主主義政治も今は多数決しか決定権はないですが、組織論的には、あまり長期権力が続くと中が澱んだりするので、未知でも新しい組織にやらせてみようかと、スポーツなどではありますね。 多数決は、少数の犠牲の上に成り立ってるかもしれませんし、長い安定は、馴れ合いや腐敗に繋がるかもしれませんね。 >最大幸福、大量生産のジレンマとは何なんでしょうか? そのジレンマを解決する方法が、これ >最終的には、「ああしたい」とか「こうしたい」という理想や目標を捨て去って、一切の個人的な考えを放棄すること なのではないでしょうか、という訳です。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.3

一得一失というのもありますね。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 この世の一つの真理ではないかと思ってます。 しかし、毎回「一得」に「一失」が付いてきてしまっては、いつまで経っても「格差」や「争い」や「不調和」が消えません。 ですから、「一得」自体をそもそも捨て去ってしまったほうが良いのでしょうか、という訳です。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 最終的には、「ああしたい」とか「こうしたい」という理想や目標を捨て去って、一切の個人的な考えを放棄することになるのではないかな、と考えています。 どう思いますか?  僕は、下記のようにいいことも、悪いことも一緒に受けいれる、「心の広い」ことだと思います。  http://kotowaza-allguide.com/se/seidakuawasenomu.html

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >下記のようにいいことも、悪いことも一緒に受けいれる、「心の広い」ことだと思います。 素晴らしい考えだと思います。 その別の表現が、 >「ああしたい」とか「こうしたい」という理想や目標を捨て去って、一切の個人的な考えを放棄すること なのかな、と思った訳です。

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.1

この質問、 「併せ呑む」のは誰の為に? 或いは何の為に? そう考えてみたら、 …それは全て「自分の為」に考えてる事ではないか? つまり「自己満足」「自己中心」的。 …何かが違う。 「清濁」の意味をはき違えてないかな。

windows723
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >それは全て「自分の為」に考えてる事ではないか? その通りです。 自分の利益と他人の不利益が共存していて、自分の利益の為には他人の不利益を受け入れる必要があるように思います、ということです。 だからこそ、最終的には自分の利益を丸ごと捨て去る必要が出てくるんじゃないでしょうか、ということです。

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