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江戸時代後期の手伝普請
諸般にとっては莫大な負担が特定の藩に幕府から命じられますが、これはただ一方的に負担を強いられるだけのものなのでしょうか? 参勤交代の軽減とか官位の上昇とかなんらメリットは与えられなかったのでしょうか?
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>諸般にとっては莫大な負担が特定の藩に幕府から命じられますが、これはただ一方的に負担を強いられるだけのものなのでしょうか? 一方的というか幕府と大名との力関係で大名としては従わざるを得ませんでした。 尚「負担が特定の藩に幕府から命じられますが」とありますが実質的に何処の大名が負担するかは各大名家の江戸留守居役と呼ばれる連中が話し合って決めていました。 江戸留守居役というのは現在で言えば各大名家の外交官に当たる役職です。 この連中は談合組織のような寄り合い(組合)を持っていて頻繁に料亭などで会合を開いていました。 幕閣による普請の情報を手に入れると引き受ける大名家を決めて幕府に指名させていました。 当然顔なじみで古参の連中の大名家ではなく日頃の付合いの悪い留守居役や新参者の留守居役の大名家がやり玉にあがりました。 各大名家の勘定方の役人にすれば手伝い普請に掛かる費用に比べれば留守居役の飲み食い代なぞ安いものです。 これをいいことに留守居役は会合の度に派手に金を使っていました。 江戸時代も後期になるとどこの大名家も俸禄の借上と称して家臣の減給をしていました。 このような処置を受けていた国元の家臣にとっては江戸の留守居役は目の敵でした。 >参勤交代の軽減とか官位の上昇とかなんらメリットは与えられなかったのでしょうか? 与えられることはありませんでした。と言うか与える余裕がありませんでした。 大名を昇格させるということは領地を増やして石高を上げるということでした。 これにはどこかの大名の領地を削るか引っ越させるか幕府の領地(天領)を削る以外に方法がありませんでした。 いずれも簡単な話しではありませんでした。 よく参勤交代が大名の財政を圧迫していたと言われますが国元との往復費用よりも江戸藩邸での暮らしの方が圧迫していました。 国元であれば生活に必要な物資は領民から現物で徴収できましたが江戸では全て金銭で購入する必要がありました。 この金銭を手に入れるには年貢である米を町人に売り払う以外に方法がありませんでした。 飢饉や凶作で国元から米が送られてこなければ立ち往生ということになりました。 豊作の年には米相場が値下がりして高く売れません。 参勤交代の大名行列は大名どうしの見栄の張り合いで年々派手になっていました。 大名が使う風呂桶まで運んでいました。 国元への行列だけではなく江戸城へ登城する際の行列も派手になっていました。 幕府も再三再四質素にするように下知しましたが当時は見栄と体裁格式の時代でその見栄がかかっていますので直りませんでした。 少なくても参勤交代の費用は大名が自分で自分の首を絞めていたようなものでした。
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- kouki-koureisya
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江戸後期の手伝普請の話ですね。 ご質問の趣旨は、莫大な負担を強いられた藩には、幕府から何らかの恩賞があったのか、というご質問ですね 真っ先に思い付いたのは、緊急を要する海防の面から、お台場の建造と製鉄・造船所の建設です。 ただ、私は、思い付いただけで、よく知りませんのでちょっとだけ調べてみました。 結論から申し上げますと、幕府は、諸藩の負担が軽くなるようにできる限りの配慮をしています。 1.参勤交代の緩和。 1862 年(文久 2)閏 8 月に参勤交代制の改正があり、隔年を 3 年ごとに改め、大名妻子の帰国をゆるし、大名の負担を軽減しています。 参勤交代の緩和や家族帰国の件については、大名から訴え出るのはなかなか難しいと悩んだいきさつが生々しく、ここに書いてあります。 http://ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/7158/s/4972/ 個人の論文ですからコピペはひかえます。36、37ページ。 154ページ以降には、この緩和の実態を記録から検証しています。 他に、参勤交代の緩和に関しては、「三年一勤百日在府制」や「百日大名」などの言葉もあります。 2.江戸湾警衛大名にとっては「私領同様預所」を得ることは、戦争による軍功ではないものの、恩賞に近いものだそうです。 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-06.pdf#search='%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%B5%B7%E9%98%B2%E8%B2%A0%E6%8B%85+%E8%BB%BD%E6%B8%9B%E3%82%92%E8%A6%81%E8%AB%8B 勝手にコピペできませんので、91ページ下段を見てください。 ここには彦根藩の例があります。 座談会の最初に出てきます。 http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_458/yurin2.html 3.正に国難の時代、品川沖の洋式砲台の建設に関しては、「これまでのお手伝い普請の慣例を破り、諸藩に対して建設費を幕府が負担する事を条件として建設を命じた」そうです。 これは、まだ裏付けを取っていません。 http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+kurigonn-1957/?of=31 4.幕府は、「江戸湾防御のために必要であれば便宜をはかる」という方針だったそうです。 「江東区の下町文化」No.251 https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/shuppanbutsu/documents/shitabun251.pdf#search='%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E8%97%A9+%E5%BF%8D%E8%97%A9+%E5%8F%B0%E5%A0%B4+%E8%B2%BB%E7%94%A8%E8%B2%A0%E6%8B%85%E3%81%A7%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%A8%E4%BA%A4%E6%B8%89 (6、7ページ)天保 13年(1842) 、幕府は江戸湾のうち房総半島側の防御を忍藩に、三浦半島側の防御を川越藩に命じます。この時幕府は、江戸湾防御のために必要であれば便宜をはかると伝えています。 官位についても何らかの対応があったのかもと思いますが、分かりません。
お礼
ご回答ありがとうございました。
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家康は傲慢そのもの、それが幕末は北方警備を担った両藩の国主格引き上げが頭に浮かんだので、その中間の時代が気になったものです。 確かに後期と書くと幕末を想起しますね、ちょっと表現がまずかったです。
- oska2
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>諸藩にとっては莫大な負担が特定の藩に幕府から命じられます その通りですね。 権力者は、非支配者の体力を奪う目的で普請命令を出します。 江戸幕府で有名なのは、色々と小説や映画の題材になった「薩摩・島津藩の普請」ですよね。 予算の数倍の経費と多くの藩士の命の引き換えに、やっと護岸工事が終わりました。 >一方的に負担を強いられるだけのものなのでしょうか? 先に書いた通り、「反抗出来ない様に体力を削ぐ」のが普請の目的です。 何ら、見返りはありません。 ですから、江戸藩邸に勤務する家臣の最大の目的は「普請命令を受けない事」だったのです。 >参勤交代の軽減とか官位の上昇とかなんらメリットは与えられなかったのでしょうか? 何らメリットはありません。 工事普請中でも、参勤交代の義務は免除になりません。 反対に、メリットを求めて「自ら普請を受けた藩」も存在します。 有名な、島原藩です。 石高以上の普請を自ら受けたので、領民は重税で倒れます。 結果として、島原の乱が勃発。 戦後は、知っての通りです。 余談ですが・・・ 幕府は、宗教に対しても力を削ぐ政策を行っています。 本願寺は、東西に分裂。 高野山は、12万石から2万石に減額。同時に、坊主に対して「参勤交代」を命じています。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
高野山に参勤交代は知りませんでした、興味深い話をありがとうございました。
- ithi
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jkpawapuroさん、こんばんは。 基本的に見返りはなしです。これは大名の義務で参勤交代と同じ意味を持つ夫役です。すでに重要な役割を担っている藩には軽減、あるいは免除の措置が取られることがあったようです。 詳細は下記のURLを参照してください。 手伝普請 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E4%BC%9D%E6%99%AE%E8%AB%8B
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
あーなるほど、留守居役同士でババヌキ状態ですか。 家康の武断政治から文治政治に移っていき、上米の制などでは参勤交代の緩和等あったのに、手伝普請だけやたら乱暴な制度があったなあと思ったしだいです。幕末だと北方警備により国主格格上げとかあるのに。 幕府VS藩の構図で見るからいけないんですね。幕府プラス諸藩VS特定の藩という形にしてしまうわけですか。 ご回答ありがとうございました。