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江戸時代の15歳という年齢。
吉宗の時代から始まった全国人口調査では、男女とも15歳迄はそれぞれの藩・幕府領・旗本領の従来の慣例に従って集計すればよいとしています。 (参考:一男女人数拾五歳迄之内領主にて相改候格例を以改出候に付年齢不同有之候事) 15歳という年齢にはどんな意味があったのですか。 15歳までは未成年というような考え方があったのですか。 例えば、罪が軽減されるとか、武家では15歳になれば見習で出仕できるとか、です。 よろしくお願いします。
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初代ウルトラマンの娘である女優の吉本多香美さんが14歳のとき、家族でアフリカ旅行をしたそうです。んで、彼の地では14歳が結婚適齢期で彼女が14歳だと知った族長から牛10頭で我が村に嫁にこないかと誘われたそうです。そして、数年後に再び訪れたら牛が豚に変わって(豚のほうが安い)「価値が下がった」ことを体感したそうですよ。 発展途上国では、15歳前後が結婚適齢期とされることが多いみたいですね。そういえば「赤とんぼ」も「十五でねえやは嫁にゆき」とあります。 おそらく理由は初潮と精通だと思います。初潮と精通を迎えるということは、妊娠が可能な体になったということです。栄養の発達と共に二次性徴の前倒しは起きていて、現代日本では小学生で初潮を迎えることが多いですが戦前は15歳から17歳くらいで初潮を迎えることが多かったといいますから、経験的にそこらへんが「大人になる」という感覚だったでしょうね。 ちなみに生物学的には、ヒトのメスが最も妊娠に適した年齢は20歳から23歳くらいだそうですよ。 今は成人式は20歳ですが、社会的には子供扱いですね。昭和末期までは「女とクリスマスケーキは同じ。24まではチヤホヤされるが、25になったら価値が暴落する」なんていわれていました。私が子供の頃は28歳で結婚していなければオールドミスって感じでしたよ。友達のお母さんを「高橋君のおばちゃん」とかいってたけど、30代前半かヘタすりゃ20代後半だったんだよな・笑。 江戸時代の成人に関しての有名な話は「八百屋お七」ですね。 お七という娘が火事で避難したときに美男の若い武士(寺の小姓というのもあります)と出会い、彼と再会したさに火事になればもう一度会えるかもと放火をしたという話があります。放火というのは古今東西どこでも大罪と決まっています。現代でも、放火罪は死刑や無期懲役もある重罪です。 ところが捕まったお七はまだ若かった。十五だと成人で火あぶりの刑になるのですが、それを不憫に思った奉行は「お前は十四だな」と聞きました。「お前はいくつだ?」「十四です」といえば、奉行を騙したということになります。しかし奉行が「お前は十四だな」といって「はい」と答えるには間違えたのは奉行ですからお七は咎められません。また当時は1歳の間違いくらいは些細なことでした。彼女は「はい」と答えれば未成年者扱いとなって罪に問われませんが、彼女は「いいえ。私は十五です」と答えたから刑場の露と消えたという伝説が残っています。
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- 4017B
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武家諸法度では成人年齢の下限は定められておらず、逆に跡取りして婿養子などを家に迎える際の上限年齢を "大名、50歳以下" と定めています。ただしこれもあくまでも重責を担う大名家の話であって、その下の下級武士であれば60歳のお爺ちゃんを跡取りとして養子縁組しても御法度破りにはならなかったみたいです(まあ噂が立ち陰口は叩かれるでしょうが)。 これは最初に武家諸法度が出された二代目秀忠の時の武家の定義が「大名家」のみだったからです(これ以降の改定で武家の範囲が御家人クラスまで下げられて行く)。そうして将軍様が代替わりする毎に改定が繰り返されますが、8代将軍吉宗の時に5代綱吉の「天和令」に戻してこれを継承して行く事が宣言され、その後は幕末まで変わらずに踏襲されて行きます。 因みに同じ時に天皇家や公家貴族らの生活規範を示した「禁中並公家諸法度」というモノも発布され、これは幕末まで一切変わらずに運用されて行きます。中身は基本的に「公家共は学問に励み政治的野心を抱くべからず」的な内容に始終してます。 で、この武家諸法度では「当主嫡男が17歳に満たず廃した場合は如何なる養子縁組もこれを認めず」と定められていたため。何よりもお家の存続を大事と考える当時の武家社会では、この規定が逆に様々な摩訶フシギで異常な事態を引き起こす原因ともなりました。つまり "子供の年齢ロンダリング(年齢詐称)" が日常的に行われる様になって行き、このせいで公式記録上では「次男より3歳若い長男が跡取り」などという、現代人からすると「ちょっと何言ってるのか分かんないですね」みたいな事が頻繁します(笑)。 でもこれは別に当時の武家の風習からするとオカシイ話では無く、武家社会では「当主嫡男が長男」という一種の "称号" を得るという考え方であったため、実年齢が必ずしも年上である必要は無かったのです。こういう場合、大抵は「年上次男が妾の子」というケースですね。つまり長男、次男、三男~というのは年齢順では無くて家督継承権の順位を指し示したモノと考えれば分かりやすいかと。 こんなに風に武士の生活を細かく決めてる武家諸法度ですが…何と不思議な事に「生まれた子供の届け出の義務は決められてない」のです! 大名家を始めとして武家は必ず跡取りの嫡男を「嫡子願」として幕府に願い出て許可を貰う必要があり、この時に記された「公年」こそがその人の正式な年齢となるので。5~6歳のサバ読みは当たり前、下手すると10歳に満たない子供を18歳成人として届け出る事もありました。言うまでも無く、昔は子供がすぐ死んじゃうので。御法度を律儀に守って18歳になるのを待ってたらお家断絶の危機ですから、まあ色々な詐欺的手法が考案されまかり通っていました。 ていうか絶対安全圏の20歳くらいになるまでから届け出た方が安心ですので、バカ正直に生まれたその時に届け出る必要性が皆無の制度ですよね。恐らく幕府側としても諸藩を厳しく絞りあげたい反面、一方では適当に緩めて置かないと天下は治まらないと考えていたのかもしれません。そもそも当時はDNA鑑定は無論、指紋や顔写真すら無い時代ですので、本人確認を厳密にしようが無かったというのもありますね。替え玉跡取りは基本でした。 基本でしたがコレが公になる事は絶対に避けなければなりませんでした。1つは武家の面目が立たなくなるからで、要するに直系純血主義が尊ばれる武家社会にあって、当主が実は大店の三男坊からの養子です~というのでは特に格式を何より重んじる大名家ではあってはならないからです。もう1つは前述の理由に比して起きる事象ですが、直系が途絶えた事を悟られずに尚且それなりの家柄から密かに替え玉を用意するのは難しく、他藩の大名家も純血男子は貴重な財産ですのでおいそれと他家へ養子には出してくれません。ですので通常は藩内の裕福な大店商家から密かに替え玉養子を迎え入れる事が多く、実際にこれが露見して幕府から改易、つまり領地召し上げの上でお家断絶の憂き目に遭った大名家もあります。 まあ普通は互いに損しないのでバレる事は無いのですが…子供を貰った後で大名家側が代金等を渋るとたまにこういう事が表面化します(笑)。 武家諸法度では武家の犯罪行為について道徳的な訓示は与えていますが、仮に当主がご乱心で殺人を犯そうが町娘を次々と手篭めにしようが、その後で幕府に「隠居願い」を出して隠遁して反省してマ~ス的な態度を取れば実質的にはほぼ無罪放免というか咎める事は無く。その代わりに「家督騒動」に関しては非常に厳しい態度で臨みました。少しでも不審な点があると直ぐ様、改易問題に発展したので、大名家達(特に外様大名)は常に戦々恐々としながら幕府の顔色を伺わざるを得なかったのです。しかしながら前述の様にケチらずにちゃんとやれば替え玉がバレる事はまず無く、また役無しの外様大名は例え当主であっても直に将軍様の御尊顔を拝謁する事は無かったので、書類上の不備が無ければ特に問題は起こりませんでした。 一応、大名家当主は家督を継いだら必ず江戸城に登城して将軍様に謁見し、直に主従の誓いをする事になっているのですが(初御目見)…旗本直参でも無ければ互いに顔の見える距離まで近付く事すら許されなかったので、畳に顔を伏したまま将軍様は側を通り過ぎるだけでお付きの者が「これに控えまするは某でございます」と耳打ちするだけで終わりです。その後は登城する機会自体が年に1回あるかどうかですので、身バレする心配は全くありません(笑)。 とまあそんな感じですので、少なくとも名文法か何かで日本全国的に「満15歳を持って元服成人と成す」みたいな慣習や法律はありません。15歳以上、つまり16歳からを成人とみなす考え方は明治時代に生まれた富国強兵の考え方ですね。 大体、江戸時代や明治時代の中頃までは日本人の年齢は例外無く "数え年" で、つまり現代人みたいに誕生日を迎える毎に1歳ずつ歳を取るのでは無く、「正月(元旦)を迎える毎に1歳ずつ歳を取る」のが常識です。また生まれた時点で満1歳と考えるのが普通であったため、記録で15歳とあった場合には現代換算で-2歳して考える必要があります。つまり12月31日の朝に生まれた赤ん坊は、翌日には2歳になる訳です。有名な唱歌『赤とんぼ』で「姉やは十五で嫁に行き」とは、実際には12歳か13歳くらいで家を出て嫁いで行った事を示唆しています。 この様な背景事情からそもそも明治時代以前の日本人の正確な年齢に関する問題を考察するのは非常に困難なのですが。それでも一応、『絵入女重宝記』という元禄時代に記された女子向け指南書には「女は十四よりはじめて経水通じ、男は十六より始て精水通ず」と記されていますので、女子は14歳で男子は16歳で一応成人と見做す慣習はあったみたいですね。また同じく江戸時代の物言いに「十三ぱっかり毛十六」というモノがあり、要するに女子は13歳でナニが成熟して16歳になったら毛が生え始める~という下ネタですね(笑)。 無論、これらの年齢は全て前述の通り数え年換算ですので、実年齢はさらに2~3歳ほど幼い事に留意する必要があります。以前、何かの本で「独立戦争前の北米での平均初潮年齢は19歳」と読んだ記憶がありますので。それに比べると随分と江戸時代の日本人は早熟だったと言わざるを得ません。通常は成長期の子供時代に摂取した動物性タンパク質の多寡で性成熟年齢の度合いが左右されますので、場合によってはほとんど肉食をしなかった江戸の人々が早熟であったのは不思議です。何か他に性成熟を早める要素があったのか、それともモンゴロイドの特性なのか…ちょっと謎ですね。 P.S. 他の回答例にある「八百屋お七」の "15歳未満であれば死罪は免れる" というのは完全な創作であり、当時の江戸時代の御法度や御触書にその様な犯罪者自身の年齢による免罪規定はありません。同時代に同じく放火で処刑(火あぶりの刑)された「13歳の喜三郎」という人物が居ます。そもそもこの「八百屋お七」の事件や人物自体の自在がかなり怪しいというのが研究者等の間では定説です。 ただし一応、この「八百屋お七」の事件から40年後に「放火犯であっても15歳未満は罪を減じ遠島」という規定が発布されます(吉宗時代の享保8年:1723年)。それであっても殺人犯の場合は一切の減免措置は無く一律に死罪でしたが、実は放火(付け火)に関しては明確に処罰が決まっていなくて、その時々に応じて厳しくしたり減免したりしていた様です。自称.歴史好きの人からすると受け入れ難い真実でしょうね(笑)。 「八百屋お七」の話は井原西鶴が書いた『好色五人女』が最初ですが、この原典とも言える『好色五人女』の中にはお七がお白州でお裁きを受けるシーン、つまり裁判や取り調べを受けるシーン自体の描写が一切無くて捕らえられ後はすぐに処刑されます。ですので「15歳云々」の話自体、後世の他の戯作者などが付け足したエピソードですね。忠臣蔵とかもそうですが、この手の人気作は歌舞伎や落語などで上演が繰り返される毎にその時々の世相や流行りを取り入れ付け足し、逆に事実であっても客受けが悪い要素は容赦無く切り捨て改変して行くのが常識ですので。 だとすると少なくとも江戸の人々は「放火の様な大罪であっても未成年は減免すべき」と考えていた事が伺い知れます(イケメンが忘れられず会いたいという自己中心的な理由にも関わらず)。バイト中に食べ物でふざけただけで、刑務所にブチ込んで一生罪を償わさせろと息巻く現代人とはたいぶ価値観が違いますね(笑)。
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ご回答ありがとうございます。 結論としては、 少なくとも名文法か何かで日本全国的に「満15歳を持って元服成人と成す」みたいな慣習や法律はありません。15歳以上、つまり16歳からを成人とみなす考え方は明治時代に生まれた富国強兵の考え方、ということですね。 分かりました。
- oska2
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>15歳という年齢にはどんな意味があったのですか。 一種の、成人式ですかね。 武家の場合は、15歳で大人として行動する事になります。(元服) >15歳までは未成年というような考え方があったのですか。 その通りです。 今でも14歳未満の者が犯罪を犯しても、罪に問わない事になっていますよね。 先に書いた通り、子供と大人の権利・義務が変わる年齢でした。 余談ですが・・・。 武家以外では、13歳で大人(成人=責任能力がある)と看做していたのです。 男子13歳は、初ふんどし。女子13歳は、初腰巻。 今でも、京都では13歳の子供は儀式を行う風習が残っています。 13歳になると、丁稚奉公・行儀見習いに出かけます。 百姓の場合も、野良作業の労働力が期待されたのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 江戸時代の武家は15歳で元服の儀式をしたのですね。 「初ふんどし」「初腰巻」という習慣があったのですね。 そう言えば「十三参り」という話を聞いたことがあります。
- f272
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15歳をもって成年と考えるのが江戸時代の通例でした。しかし,これは法令で規定されたものではありませんから,単に一般的な考えというにすぎません。 人口調査においては,その土地の生産力を把握するのが目的ですかあら,15歳になれば一人前に農作業などを行えるとして,その年齢を基準としたのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 その土地の生産力を把握するのが目的だから15歳になれば一人前に農作業などができるだろうと、いうことですね。 なるほど、納得しました。
- tzd78886
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武士であれば元服とかあったでしょうが、今みたいに全ての人が一斉にということは無いので、とりあえずその年齢で区切ったのでしょう。当然ですが、当時の年齢は満年齢ではなく、数え年なので、今とは違います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とりあえずどこかで区切る必要があったということですね。
お礼
いろんな具体例を示してくださってありがとうございます。 なるほど!と頷ける話で、区切りとしての15歳の意味がよく分かりました。 「おそらく理由は初潮と精通だと思います」とのことですが、言われてみて、そのとおりだと気づきました。 昭和30年代、職場の女性は22,23歳ごろまでに寿退職していましたね。 それを過ぎると遅いな、と思った記憶があります。