- ベストアンサー
世襲制
江戸時代の武士と商人は名字名前を世襲しますが、なぜ世襲するんですか? 確かに、世襲しとけば新たに苗字名前を覚えてもらう手間は省けるんでしょうけど
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.3です 補足を頂戴しましたので追加の説明をさせてください。 >藩士全員の名前が出ておらず、半分くらいの藩士は名前がわからないです。 分限帳の書式や掲載内容は目的や藩によって異なっています。 目的次第では複数作成されていました。 知行取りの藩士だけを掲載しているだけのものもありました。 >上級藩士とか下級藩士とかは書いてなかったです、ただ足軽が700人ぐらいとは書いてありました。 足軽というのは通常は卒ですので原則的には個々の氏名が記載されていません。 大名行列で槍を持ったり挟み箱や殿様の駕籠を担ぐのは卒の仕事です。 両刀を差すことができませんでした。 木刀を差していました。 >約1200人の藩士のうち700人ぐらいが足軽でしたから、多分、足軽かなと思います 過去の他の御質問から類推しますとご先祖様は郷士であったようですので在郷藩士として扱われていたものと思われます。 城下住まいではなかったと言うだけのことであくまでも士ですので少なくても卒の足軽ではなかったと思われます。 他の御質問でご先祖様は藩の業務を勤めるのに当たって家譜(由緒書)を提出させられたようですので以降は士として扱われれていたと思われます。 ご先祖様は戦国時代まで遡れるようですので既得権として農地を所有していることを認められていたのでしょう。 結果として屋敷が城下ではなく農村部にあったということと整合性があります。 そもそも藩士が城下町住まいを義務付けられたのは江戸時代以降です。 (歴史的には信長が発案して秀吉が踏襲しましたが実態として確立したのは家康以降のことです) 幕府や領主である大名は藩士が土地を所有して財力を蓄えることを警戒していましたのでこのような義務付けが行われました。 領主である大名自身も幕府からは領地を所有することは認められていませんでした。 領地からの徴税権が認められたいただけです。 大名は土地を所有していませんので幕命一つで領国を引っ越していました。 江戸時代を通じて12回引っ越した大名もいました。 耕作地はあくまでも村あるいは百姓のものでした。 「地頭は当座のもの百姓は末代のもの」というのはこのことを指しています。 郷士が小なりと言えども領地を所有していたのは例外的な処置だったということです。 >私のご先祖は、名字、名前も代々継いで(世襲)いました 「家」を継いでいたというのは名門だったということです。 武士の懲罰の一つに「お家断絶」という処罰があったように武士にとっては家門を継ぐというのは重大な意味を持っていました。 現在の遺産相続とは訳が違います。
その他の回答 (3)
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
>江戸時代の武士と商人は名字名前を世襲しますが、なぜ世襲するんですか? 財産や権利を継承するために世襲します。 武士は世襲しないと俸禄が支給されるという権利が途絶えますので収入が途絶えて生活できなくなります。 商人の場合は店の所有権を手に入れることが出来なくなりますので収入が途絶えて生活出来なくなります。 江戸時代には戸籍は厳密に管理されていました。 武士の場合は仕えている大名家に侍帳・家中帳・給所帳などと称された分限帳という戸籍簿がありました。 子供が生まれれば申し出て登録していました。 子供の名字は当然親の名字になります。 これを勝手に変えたのでは大混乱になってしまいますので親の名字がそのまま継承されました。 分限帳に基づいて俸禄が支給されていました。 俸禄に増減があった場合はその旨が記載されていました。 子供が引継いだ旨を登録しておきませんと俸禄が支給されません。 商人の場合は宗旨人別改帳というものがありました。 菩提寺が所有していて管理していました。 商人は公式には名字を使えませんでしたので名前が登録されていました。 一族を代表する筆頭者がありその人物との続柄が登録されていました。 筆頭者が死亡したりすると一族のだれが次の筆頭者になるのかを登録していました。 この際に筆頭者の名前を引継ぐということが行われました。名前を変更すると遡れなくなり混乱が生じます。 結果として代々同じ名前の筆頭者が引継がれて行くことになりました。 店や土地家屋などの不動産については沽券状というものが作られていて所有者が明記されていました。 筆頭者を引継げばこの沽券状も引継がれていきました。 これを引継がないと店も土地も家屋も引き続いて使用することができなくなります。 つまり世襲するということは単に名前を憶えていてもらうなどという安易なことではなかったということです。 氏名には財産や権利が付属していたということです。 蛇足 武士が万が一主家を離れて浪人した場合百姓、町人のように宗旨人別帳に登録することが出来ませんので過去に在籍していた主家で確かに分限帳に記載されていた人物である旨を証明して貰う必用がありました。 これが出来なければ無宿人として扱われました。 身元が保証されませんので居住することも働くことも出来ませんでした。 忠臣蔵の赤穂藩のように取り潰されると家臣は文字通り露頭に迷うことになります。
- 1buthi
- ベストアンサー率16% (194/1198)
全くの素人ですので気軽にお読みください。 武士は後継ぎがいないとお家断絶になってしまいます。娘しかいなかったら養子をもらう、子供がいなかったら両方を養子に迎えるなど大変です。 ですが男の子が複数いる場合は後を次ぐのは一人だけ、後は生涯独身または他家へ養子に行ってそこの後継ぎになることはできます。 家臣の家に苗字を継ぐ息子がたくさんいるとそのうち大きな勢力となって天下を乗っ取るかもしれないので最低のラインで家臣のお家を存続させるのが将軍様の考えではないでしょうか。 商人についてはわかりません。
- princelilac
- ベストアンサー率24% (1625/6646)
親と同じ姓名を継ぐ事例は、特に商家などではあったようです。一種の看板のようなもので、先代の信頼を時代に継承するためでしょう。「覚えてもらう手間を省く」ことになります。 武家は先代の名前をそのまま引き継ぐことを畏れ多いと考えて、一字だけを引き継いでいました。この習慣は現在は相撲の四股名や、噺家の高座名などに残っています。先代相応の実力者だけがそのまま受け継ぎます。
補足
回答ありがとうございます 私のご先祖は、名字、名前も代々継いで(世襲)いました ご先祖は農村で郷士をしていて、後に、ご先祖の地域にきた藩の武士として勤務してました 因みに屋敷、田んぼ、お墓(幕末まで城下町でなく農村のお墓)は農村にありました 藩の分限帳も図書館で読みましたが、約1200人の藩士のうち700人ぐらいが足軽でしたから、多分、足軽かなと思います 親戚は、かせいでたと言いますが、恐らく郷士出身ですから3両の足軽じゃないかと 藩士全員の名前が出ておらず、半分くらいの藩士は名前がわからないです 上級藩士とか下級藩士とかは書いてなかったです、ただ足軽が700人ぐらいとは書いてありました