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幕末御家人の窮乏の原因
勝海舟が若い頃に家が赤貧洗うが如しであったことはつとに有名です。 では、将軍に直接お目見えさえできる別格の御家人でさえもそんなに貧しかったのはなぜでしょうか? 緊縮財政だったから? 役付きにならないと禄高の加増はなかったから? なぜでしょう?
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勝海舟は、貧乏御家人の子です。それも、勝の父親は越後の盲人の子です。 質問と違うので、勝家の来歴は除きますが、もともと家柄としては最低レベルの「御家人」です。御家人としても最低レベルなので、将軍にお目見えなどできませんでした。 将軍にお目見えできるようになったのは、勝海舟が万人が認めざるをえないほど優れていて、彼の登用を「維新直前」というあの時代が求めたからです。 将軍とお目見えできるようになってからは、それなりに裕福になっています。 勝海舟とは無関係に、旗本、御家人が貧乏な理由を書きますと、 1つには、 旗本・御家人の収入が「米」だったからです。 今なら、「物価が上がったから給料を上げろ」と言えるのですが、あの頃は禄高が決まっていました。ところが物価は上がった。 例えば年収が米100俵で、米の値段は1俵1両なのに、服や野菜などの生活費が2倍の値段になれば、年収が半分になったのと同じです。 また、米の出来高には上下がありました。凶作になったりすると米は武士の所に届かない。収入はゼロ。それでも武士は生活しなければならない。 2つめ。 武士は、生きていくために、札差ほかから借金をしました。 当時の利息は・・・ すさまじい。札差等へどんどん質に入れて、数年分を借金のカタ(担保)に入れたりしました。利息支払いで、年収はさらに減りました。 3つめは、 武士はプライドが高くカネのことは全部商人任せにしました。 例えば米を換金するときなど、その都度、商人が好きなように手数料を引きました。で、で、年収はさらに減りました。 4つめ、 戦乱がなくなり、武士が余っていたのです。 なので、職に就かない武士は、「小普請組」に入れられました。小さな作業をする役目です。が、武士に大工仕事をさせるわけにいかないという理由で、何もさせてもらえず、代わりに「小普請金」というカネを取られました。で、で、で年収はさらに減りました。 ということなのです。
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- ichikawa2017
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>そんなに貧しかったのはなぜでしょうか? 江戸時代は政治力と経済力が分離された世界史上も希な社会体制だったことが最大の理由です。 ある意味で江戸時代が300年近くも維持されていたのは権力者に経済力が無かったことが一つの大きな要因です。 町人階層には経済力はありましたが政治力や権力が認められませんでした。 幕府にせよ大名領にせよ基本は軍事組織でした。 家臣団というのは基本的に領地からの収入(年貢)で生活していました。 武士の下層階級はこの領地が支給されずに領主(大名)が得た年貢から米が支給されていました。 この制度が江戸時代全期をつうじて維持され続けていました。 戦が途絶えて平和な時代が続くと交易(商売)によって収入(貨幣)を得ていた町人階層が裕福になり経済が発達して世の中が貨幣経済化していきました。 幕府の家臣であった御家人が暮らす江戸の街ではこの貨幣経済化が急激に進み幕府から支給される米を貨幣に換えて(売って)生活することを余技なくされました。 武士というのは基本的に戦闘員ですので他の職業に従事することが禁止されていました。 政治権力を持つ武士が経済力を蓄えることを防ぐ意味合いもありました。 江戸時代といえども経済が発達するのに伴い物価が上昇します。 武士階級は親子代々の終身雇用でしたが俸給はあがりませんでした。 限られた領地内で誰かの俸給を上げるということは誰かの領地を減らすか大名の年貢地を減らす必要がありますので簡単な話ではありませんでした。 100年以上も前の俸給のままでしたので物価の上昇にはついていけなくなります。 結果としてご指摘の勝家のように赤貧洗うがごとしという状態になりました。 蛇足 現金を持たない幕臣は屋敷が街道筋に面していれば、道路に面した土地に長屋を立てて家賃で暮らしていました。(原則的には禁止されていましたが黙認放置されていました) 街道筋に面していない屋敷地を拝領した幕臣は屋敷内で草花の苗などを育てて町人に買い取ってもらっていました。 現在も東京でみられる朝顔市やほうずき市などはこの名残です。 桜草が東京で広くみられるのもこの名残です。 これも難しい場合は傘張などして現金を得ていました。 TVの時代劇などで浪人者が傘張をしていますが、あり得ませんでした。 当時は材料支給の出来高払いでしたので、身元のあやしげな浪人に仕事を出す町人はいませんでした。 当時傘は高額な商品でした。 破れれば張り替えて再生利用していました。 このような高額な商品の材料を持ち逃げされてはたまりません。 貧乏とはいえ御家人は幕臣ですので身元が確かです。 つまり当時の傘張などの内職仕事というのは御家人の仕事でした。 江戸時代の中期に田沼意次が武家を含めて貨幣経済体制に移行しようとしましたが、浅間山の噴火や凶作でとん挫しました。 旧来は田沼意次が守銭奴のような悪人とされていましたが近年は先見性があった人物だと評価が変わっています。 江戸時代の末期に無理やり米本位経済に戻そうとした天保の改革が失敗したことが明治維新を早めたと言われています。 田沼意次が天候に恵まれていれれば日本の近代化はそうとう様相が変わっていたでしょう。
お礼
やはり貨幣経済の問題ですね。
- hekiyu2
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武士の収入は年貢ですが、その年貢。 例えば五公五民とします。 百姓は生産性を向上させたり、新田開発をしたりして 収入が増えます。 百姓が増えれば、商人も職人の収入も増えて行きます。 しかし武士は増えません。 増やそうとしても、百姓の力が強くて増やせません。 当時の百姓の発言力は相当なもので、同意を得られないと 何も出来ない、という文献があちこちで発見されています。 強行しようとすれば一揆です。 当時の官僚化した武士では、思い切ったことは出来なかった のです。 かくして、五公五民が、『実質』4公6民、場所によっては 2公8民になり、民百姓は豊かになる一方で、武士は据え置きに なりました。 しかし、民百姓が豊かになれば物価は上がります。 武士の収入が一定で、物価が上がるから、武士は貧乏に なるわけです。
お礼
物価上昇の原因についてご教示いただきました。 民百姓の経済力上昇が原因とは驚きです。 ありがとうございました。
- eroero4649
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他の方も指摘しているように、武士のお給料は米で払われていました。それぞれの武士はまず自分たちの食べる分を確保して、余った分を米問屋などで換金して、そのお金でお米以外のいろんなものを購入していたのです。 それで、その(お米の)給料というのは昇給はないのです。そもそもそういう概念がありません。この役職はこれだけのお給料と決まっていたら、江戸時代を通じてずーっとそのお給料なのです。 ところが時代が進めば当然開墾が進んだり技術が進んだりして米の収穫高が上がります。米の量が世間に多く流通するとどうなるかというと当然一俵あたりの米の値段は下がるということになります。インフレが起きるということですね。 また経済の生産性が上がると、米のインフレに合わせて蝋燭とか炭とかの世の中のありとあらゆるものの値段が上がります。当然ですよね。昔は120円でラーメンが食べられたとか電車の初乗りが80円だったとかそういうやつです。 電車の初乗りが80円だった時代に決められた給与が、初乗り120円の時代になっても変わらなかったら、そりゃ相対的に貧乏になります。 しかも武士というのは生産階級ではないですから「こんだけ働いているんだから昇給してくれ」とはいえないのです。例えばとある武士なんかは「私の家は代々殿様が通ったときにこの部屋のふすまを開ける仕事」だったりするわけですから、その仕事の生産性が上がるわけではないので昇給する理由がない。 そこで武士が一生懸命になったのが「アルバイト」です。よく時代劇に出てくるのが傘張りの仕事です。あとはですね、金魚を育てるとか、朝顔を育てるとかほおずきを育てるとか、まあやっぱり武士ですからあんまり下品な仕事はいけませんのでそういうことを皆さん頑張っていたのです。 蛮社の獄で散った渡辺崋山は画家でも有名ですが、あれは風流な趣味じゃなくて、生活費を稼ぐためのアルバイトだったのです。「田原藩家老」だったのにね。確か武士やめて絵師になっちゃった人もいたはずです。でも武士はとりあえず世襲ができるので辞めるのもなかなか勇気が要ったと思います。 下級武士の多くは明治時代になると商人などに鞍替えしました。バイトが本業になったわけですね。 でも下級武士ならアルバイトにも精を出せるけれども、上級武士となるとそうもいかない。では役職があるような上級武士はどうしていたのかというと、それが「賄賂」だったのです。役職柄いろんなところからやってくる付け届けが、大切な生活費の一部だったのです。 「江戸時代の賄賂は悪いことではない」という人がいるのは、そういうことなのです。 でも賄賂は賄賂だよなということで、吉宗なんかは基本給を上げるような改革もしています。役職のボーナスを弾んだのです。ところがこうなると、今度はその役職から外れるとボーナスがもらえなくなるから今の立場を守ろうとする。まあなかなかうまくいかないものですよな。 それでもまだ膨大な直轄地を持つ徳川家の御家人はそれでもまだマシなほうで、独立国であり単独に財政を行わなければならなかった諸藩は大変です。前述の渡辺崋山の田原藩はおちんちんの形をした渥美半島だったので、台風が通るたびに大きな被害です。農民の田畑が被害を受ければ当然税収も減ります。税収ないなら武士の給与も払えない。田原藩士の間では「晩酌」が贅沢だったというほどの窮状でした。渡辺崋山が蘭学に手を出したのも「領地の生産性を上げるために外国の知識を求めた」というご家老として実に立派なお考えからです。それで蛮社の獄ですからね。悲しい話ですよね。 日本の一番端っこにして領地がほぼ全土火山灰に覆われる薩摩藩となるともう悲惨。なにせ参勤交代の片道だけで1万5千両もかかりますからね。一番ひどいときで3年くらい給料が遅配!していたというのですから、みんなどうやって食っていたのか。「一目見れば薩摩藩士と分かる」と江戸っ子に揶揄された(痩せててボロボロの格好をしていたから)ほどで、屋敷の壁の補修もできずに外から入りたい放題。泥棒がそこから中に入ったら、あまりにも盗むものが何もなくて憐れんでお金を置いて行ったという都市伝説があるほどです・笑。 宝暦治水事件という大工事を幕府から命ぜられたこともありましてね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6 これはもう幕府による薩摩藩潰しのかなりえげつない陰謀で、そりゃ藩主もストレスで27歳の若さで亡くなるし、幕末に徳川幕府を倒してやろうというふうにもなるわけですね。
お礼
詳しい解説をありがとうございました。 貨幣経済の問題が一番大きいようですね。
- qazwsx21
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貨幣経済になっているのに、依然として米という現物で給料が支払われていたから、現金を持っていない武士は貧乏にならざるをえませんでした。
お礼
米遣い経済と貨幣経済の矛盾、ですか。 ありがとうございました。
お礼
「御家人としても最低レベルなので、将軍にお目見えなどできませんでした。 そうだったんですか! 驚きです。 1は、貨幣経済と米遣い経済の矛盾。 2は、高い利息。 3は、手数料。 4は、無職の武士余り時代の「小普請金」 ありがとうございました。