こんにちは。
読ませていただきました。
私は、今カウンセラーをしていますが、元々は哲学なんてのをやっていたので、ひょっとしたら回答が書けるかもしれません。
お書きになられたものを読んでみると、いくつかのテーマが見えてくるような気がします。
まず、印象的なのが、岩波文庫のベルクソン『時間と自由』ですね。
どうしてまたベルクソンなのかと疑問に思いました。
いま日本国内には数万人の哲学の研究者がいるようですが、ベルクソンは200人定度とごく少数派ですねぇ。
大学の講座でも、ベルクソンを教えることも本当になくなりました。
しかし、現代の哲学史上、重要な哲学者であることは間違いなく、ノーベル文学賞まで取っていますから、フランス国内ではとても重要な地位を占めているのでしょう。
僕は好きです。
哲学に好き嫌いもないのですが、明らかに好きな哲学者の一人ですね。
理由は二つあるのですが、まず、科学と対話しようという意思がものすごくある。
実際に科学との対話が成功しているかどうかは専門家の領域だとして、直接、科学の論文を読むんですね。
あまりに科学論文を読みすぎて精神的に参ってしまったというくらいで、時間についてアインシュタインと論争するんですが、相対性理論の論文をとにかく読みまくったそうで、こんなことする哲学者いないですね。
テーマとしては、物理学などにおける時間は、人の意思とは関係なく物理現象として経過していくのですが、私たちにおける時間というのは、流れ去らずに積み重なっていくものであり、幼児期の自分が大人になっても生きているというように、ある時期の時間が今の時間の背景となって存在し続けているとでもいうのでしょうか、そういう時間意識というものがあるのだと思います。
こういう意識を抜きにして時間を語ってよいものかという問題設定があるのだと思います。
確かに相対性理論は、時間と空間と重力の関係を明らかにし、地球規模で考えられていた時間概念を宇宙規模に拡張してとらえたという点では画期的ですが、じゃあ、私たち人間にとっての時間一般を明らかにしたかといえばそうじゃない。
極端な言い方をすれば、物理学における時間というものも私たちの時間意識においては特殊な場合なのだということだって言えるのではないか、こういう問題意識があるのだと思います。
では、なぜこういうことが問題なのかといえば、問題は二つくらいあって、一つは科学主義の問題、それと意味の問題なんですね。
科学が万能となり、人々の生活の中に入ってきた際、私たちの生きている時間意識というものを大きく変更してしまい、生きにくくなってしまうのではないかということ。
次に、私たちの時間意識とでもいうようなものにおいて、時間と意味がどのように絡まりあっているのか、これを明らかにすることで、いろんな問題が解けるんですね。
例えば、身体と心はどういう風につながっているのかとか、言葉と身体の関係とか、そういう問題とも絡んできます。
繰り返しになりますが、ベルクソンのすごいところは、哲学上の思弁を展開する際に、同じく時間を扱っている物理学を無視せず対話していこうという姿勢です。
ある意味すごく論争的なんですが、同時代性、つまりこの同じ時代を生きている知性同士に対する対話を心掛けているという点で、やっぱりすごい。
ベルクソンの影響を受けて、ハイデガーが存在と時間の中でも、存在の時間性をうんぬんしていますし、哲学上の時間論に大きな影響を与えています。
この姿勢がフランスエピステモロジー(科学論)という哲学の領域を生み出すことになりますし、現象学と結びついてメルロー=ポンティの『行動の構造』や『知覚の現象学』の直接の源泉になっています。
ところで、わたしは人は言葉とどのように生きているのかということにとても関心があって、そもそも考えるということと表現することにおいて言葉がどうかかわっているのかということにとても関心があるんですね。
これはとりもなおさず身体と世界との関係であるとか、世界の分節化としての言葉の役割とか、いやいや分節化というものが可能になるのさえ、身体の分節化というものが出来てこそ可能になるのだから、身体との関係を世界へと拡張している、このことが言葉を可能にしているのだとさえ言えるんだと思います。
これには科学的な成果を参照することになりますので、ここから哲学的な結論を導き出す対話をしていったわけです。
こういうことをちょっと古いスタイルで明らかにしていこうとしていったのがベルクソンの哲学ではないか。
わたしが好きなもう一つの理由は、わたしたちはどこからきてどこに向かうのかというテーマを持っているところです。
新プラトン主義とでもいうのでしょうか、私たちの魂の目的をどこかで明らかにしようとしたのだというところですね。
哲学には二つの考え方があって、還元主義と全体論ですけども、メカニカルに部分の総和が全体であると考えるのか、いやいや部分とは見かけ上そう見えているのであって、そこにも全体というものがあり、見かけ上の部分の意味が全体という秩序なのだという有機体論とがあるのですが、哲学史はプラトンとアリストテレスというように、この二つの考え方の対立であるとさえ言えます。
わたしにはベルクソンはこの全体論の立場に立っていると思えます。
全体論というのは、有機体的にできている考え方で、私たちの身体は一つ一つの細胞でできていますが、この細胞一つを取り出しても、わたしたちの生命の設計図が組み込まれていますし、もとは単細胞生物だったわけですから、独立して生きることだってできるようになっていますね。
それらがさらに目的をもって共同していくのが生物の個体という形ですし、精神を生み出しています。
というと、生命そのものに何か目的があってこのように進化していったのではないか、ということがどうも言えそうです。
全体論は目的論ともいわれますが、見かけ上の部分の意味が上位の階層といわれる上の部分ですから、これは無限に上位の向かっていくということが考えられるのであって、何かしかの目的があるのではないかと思われるわけです。
ここらへんが進化論と結びつくと『創造的進化』という著作になっていくわけです。
こういうことって、とかく宗教的にとらえられるか情緒的にとらえられたりしますが、本来はすべての人にとってプリミティブに最大の問題だと思うのですね。
とはいえ、哲学の学問上の問題としてはキリスト教との兼ね合いもあって大っぴらに語られないのですが、本当はなんとも味のあるゾクゾクするような問題を語りたかったんだろうけど、そのために学問的に用意周到に準備してきたのかもしれないわけです。
晩年は霊のことを語ったり、研究したりもしたようで、かなりオカルト的なことも考えていたようです。
当然こうなりますよね。
さて、こういう難しい本を読む意義ですねぇ。
一生かけて彼は世界の不思議について学問として考えたわけです。
一生かけて考えないといけないような大問題だから、難しいですよね。
人が一生をかけて、こういう人生の難問に取り組んだ姿をなぞってみるのも、よいのではないでしょうか。
吉田 修(@osamucom0409) プロフィール
産業カウンセラー(日本産業カウンセラー協会)
吉田修(株式会社Dream・Giver)
■ご質問者・みなさまへ■
コーチング最新メソッドを使い、自分でできる、気持ちの切り替え方法をご提案しま...
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お礼
ありがとうございます。 目が滑ってしまいました……