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日本史の詳しい方m(__)m徳川性に対して信長は?
小学6年生の息子の質問です。 松平元康は 『天下の権力は平家と源氏が交代するもの』という考えから、 織田信長が平氏の血統だと名乗っている。 次に権力を握るのは【源氏】の血統だから… 同盟を結んだ自分(家康)は【源氏】であるべき… という考えから【徳川】に改名(復姓)した。 と学習したらしいのですが、 そのアピールに対して 信長は何も思っていなかったのか? 『はぁ?もしかして 次は俺? とか こいつ思ってるって事? 気にくわん!』 とか…思わなかったのかな…。 信長も 『平家の血をひいてますー。』とアピールしてた(?)のだから、 家康が 次の源氏をアピールしているのに気づかないはずはないと思うのだけど。 よく 「生意気な!」と 信長に切れられなかったあぁ…。 と 疑問に思っています。 日本史にお詳しい方 お教えいただけましたら有難いですm(__)m。 宜しくお願い致します。 小6男児質問者の母より
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- takuranke
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#5です 6年生なら理解すると思います。 読みやすい正史もありますので、 これで歴史に興味をもってくれたらうれしい限りです。 >授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 往々にして小説などの虚構を鵜呑みにしている教育関係者もいます(歴史好きといっても正史を学ぶ人だけではないので)。 いくら興味を持たせるにしてもひどすぎる説明です。 少なくとも、桶狭間で今川軍として出兵し、 今川氏が敗れたことで岡崎城に入り、 三河地方の掌握のために朝廷に官位を要請し、 苗字とともに三河守を賜ったと説明すべきでしょうね。 かなり大雑把にはなりますが。
- kitsunetoneko
- ベストアンサー率27% (66/243)
こんにちは m(__)m 質問者様のお子様の,学校の先生は,勘違いしてますね‥‥そもそも,徳川家康公が,自身の家系図(族譜など)を,改竄して,自身の一族のルーツや,ご先祖様を,源頼朝公等と同じ,清和天皇の子孫にあたる,武家の一派で,日本史上,武家として有名な氏族の,清和源氏の武家の,河内源氏の,支流である,新田義貞氏などで有名な,新田氏だと主張し,当時の,京都の朝廷の官吏達などを通じて,京都の朝廷に,認めさせ,もともとの,菅原姓や,藤原姓などから,源氏姓に変えたのは,徳川家康公が,当時の所領の,三河国の,トップである,三河守という官職などを,朝廷から得る為の手段であり,さすがに,当時,偉大な上司などである,織田信長公を,越えようとかは,考えてはいなかったと思いますよ‥‥‥徳川家康公は,後に,織田信長公が亡くなられた後,自身の上司が,豊臣秀吉公に変わった際には,一時期,豊臣姓を,名乗っていたようですし,徳川家康公が,天下取りなどに,本格的に,始動し始めたのは,豊臣秀吉公の晩年などだと思います..徳川家康公が,源頼朝公に,憧れていたという逸話などは,有名ですし,豊臣秀吉公なども,一時期,上司の織田信長公と同じ,平氏姓などを,名乗っていたようですが,豊臣秀吉公の場合は,もともと,ご自身が,足軽階級や,農民階級という,下級武士の家などの出身ですので,出世したりする度に,ご自身の名字や名前,氏姓などが,コロコロ変わっているようですし,当時の,成り上がりの,武士達には,こういったことなどは,珍しいことでは,なかったようですが,もともと,源氏や,平氏などの,ルーツでない者が,源氏や,平氏などの氏姓を,自身が,勝手に,名乗ったりするのは,いわゆる,京都の朝廷から,官職などをもらう際の,手続き上の,権威付けのような,習慣だったようです..織田信長公は,もともと,越前国の神官;忌部氏の出身者だと言われていますが,藤原姓や,平姓を名乗っていたのは,自身の権威付けの為や,朝廷から,官職などをもらう際に,朝廷の手続き上,必要だったからだと思われます..特に,深い意味は,ないと思います..
お礼
ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
- ichikawa2017
- ベストアンサー率54% (452/836)
信長も家康も最後にはチャンピオンになりますが、初めからチャンピオンになるとお互いに分かっていた訳ではありませんでした。 ボクシングのチャンピオンと同じでやってみなければ分かりません。 チャンピオン戦に参加するには、それなりに強くて何度も勝っている必要があります。 戦国時代の武士のチャンピオン戦は戦争ですから命がけです。 >はぁ?もしかして 次は俺? とか こいつ思ってるって事? 気にくわん!とか…思わなかったのかな…。 けらいが次は俺などと考えたらこのヤローということになりますが、今味方して協力してくれている相手ですから、たとえ思っても喧嘩しては何もなりません。 戦国時代ですからお互い様です、将来のチャンピオンを目指すような強いヤツの方が味方としては心強い味方です。 信長と家康の力関係で信長が上になるのは知り合ってから暫く経ってからです。 初めのうちは、お互いに協力しあって周りの連中をやっつけていました。 家康は秀吉のように信長のけらいだっった訳ではありませんでした 武田氏との戦闘では信長の方から家康に大量の砂金を送って協力を感謝していました。 >信長も 『平家の血をひいてますー。』とアピールしてた(?)のだから、家康が 次の源氏をアピールしているのに気づかないはずはないと思うのだけど。よく 「生意気な!」と 信長に切れられなかったあぁ…。 自分が伸し上がるには、まずは周りの人間を命がけでやっつける必要がありました。 やっつけるにはけらいが多いか、一緒に味方になってくれる人が多いほど有利です。 味方を集めるのにオレのご先祖は平氏だからご先祖が源氏のヤツはダメダなどと暢気なことは言ってられません。 今味方になってくれるかどうかの方が大事です。 味方になってくれるのなら、ご先祖が平氏だろうが源氏だろうが馬の骨だろうが一向に差し支えはありません このことは信長にとっても家康にとっても同じです。 蛇足 信長がいた時代にも、源平交代思想というか政権は源平の2氏が交互に担うという考え方は確かにありました。 これは室町時代ごろから言われ始めたものですが、あくまでも結果論です。 おそらく僧侶など閑な人間がそれまでの武家政権の交代を眺めて考え付いたものでしょう。 これを政権交代の理由として歴史を考えますとお子さんのように混乱してしまいますのでご注意下さい。 お子さんの学校の先生も一つのお話としてされたのかと思います。 信長が打倒した室町幕府は足利氏の幕府で足利氏が源氏だったことから平氏であった信長が打倒したという説明を時々見かけますがこれも結果論です 氏素性がこうだったから打倒したという訳ではありません。 信長も家康も力がついて朝廷に認められて官位をもらうようになってから平朝臣などと署名しています。家康は当初藤原朝臣と名乗っていましたが途中から源朝臣に変更しています。 信長にせよ家康にせよ自称したものを朝廷が認めただけです。 家康が松平から徳川に変える際にはこじつけるのに苦労したようです。 三河に居た得川氏に近いから徳川だと分かったような分からない理屈でした。
お礼
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- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11082/34532)
一応武士(貴族や公家も入れてもいいのですが、全体の数はものすごく少なくて京都近辺くらいに集中していると思うので、武士に限定します)は、全て平氏か源氏か藤原氏の末裔ということになります。橘氏とかもあるのですが、もうそうなると家系の専門家じゃないと分からないレベルなので、ざっくりいうと「大半が平氏か源氏。たまに藤原氏」なのです。 元々が武家というのは平氏が台頭して、それに次いで源氏が台頭しましたからね。家紋の専門家によると、その家が江戸時代から続いているような家なら、家紋を見ればどっちなのかはだいたい分かるそうですよ。 だから日本中の武士は「ウチは源氏」「ウチは平氏」「ウチは藤原氏」と称していたのです。 有名な戦国武将(大名)で由緒正しい家柄といえるのは、武田信玄でしょう。武田家は由緒正しい清和源氏の末裔です。これにちょっと劣るのが今川義元で、今川家も同じ清和源氏なのですが、武田家のほうがより本流に近いんです。 ちなみに上杉謙信は元々血統的には長尾家になるので平氏ですが、謙信が上杉を禅譲されたので、上杉家となると藤原家となります。より細かくいうと上杉家の中の山内上杉家となりますが。他に扇谷上杉家ってのもあるの。もうこれは小学生のお子さんどころか質問者さんの理解レベルも超えていると思います・笑。 では織田家はどうなのか。織田家というのは尾張国の守護代(支店長代理)の一族になります。室町幕府っていうのはそれぞれのナントカの国に対してその支店長ともいうべき守護職を置いていたのですが、守護の多くは京都に住んでいて現地にはいなかったのです。そこで現地に住んで実質的な管理をやる守護代という役職が各地にいたのですが、織田家はその守護代です。 しかも、信長の父親である信秀はその織田家の中でも庶流というからどうも直系ではなく傍系らしいのです。つまり家の格っていうのはかなり低いほうで、一応織田家は平氏ってことになっているのですが信長も一時期「藤原信長」と名乗っていたりして、はっきりいってよく分らない。まあはっきりいやあたいした家格ではないってことです。時代は実力主義の戦国時代ですからね。 では一方の松平家はどうか。三河土着の一族であることは分かりますが、どうも資料が十分ではなくよく分っていません。何しろ後には天下人になった家ですから、後世にいろいろ書き換えたり都合の悪い部分は削除したってことも多々やったと思うので、もう客観的な資料が出てくることはないでしょう。 ちなみに織田信長実質的に天下人にリーチをかけた状態でしたが、天下をとった人ではありません。だから「織田が平氏だから次は源氏」という考えは当時の人たちは思っていなかったはずです。信長が朝廷が認める天下人になったわけではないですから。 信長の最高官位は、右大臣です。これは正二位の官位で、見てお分かりの通り一番の官位ではありません。この上には正一位、従一位の官位があります。 そして信長は本能寺の変の直前に、突然に官位を返上して無官となってしまいます。官位がないと天皇に会うこともできません(後に江戸時代、来日した象を天皇に見せるために象に官位が与えられたことがあります)。朝廷は慌てたのですが「ま、そういう仕事は(明智)光秀とかがやるからいいよ」といったのです。 このとき、慌てた朝廷は何と「あのー。太政大臣、関白、征夷大将軍。お好きなのを選んでください」といっています。私が知る限り、この三大テノールで好きなの持ってけといわれた人物は織田信長ただ一人です。ところがこの日本史上前代未聞の申し出にも信長は「どれも要らん。興味ない」とすげなく断ります。 私は、これが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかなと思っています。超合理主義者の信長は「俺が官位持ってたら、俺は天皇の部下ってことになるじゃん。俺、天下人じゃん。俺が天皇の下って、おかしいじゃん」と思っていたのではないかなと思います。 意味のないものは大嫌いな超絶合理主義者で理系脳だった織田信長は、家柄とかそういうものを心底「くだらない」と思っていたのではないかなと思います。だからこそ、彼は部下の出自を全くこだわらずに超能力主義で抜擢していました。彼の部下には明智光秀や羽柴秀吉、滝川一益といった「出自が分からない幹部」ってのが一杯いるんです。 ただそこまで絶対的な立場ではなかった頃には官位を貰ったり足利将軍を擁立したりということもしていました。ただそれは「今はそれは利用したほうが役に立つから」という合理主義に基づいたものだったと思います。もう自分にとっては不要になったから足利将軍を追放し、自分の官位も返上したのでしょう。「織田家は平氏だったのか(信長が藤原信長と名乗っていた時期があったから)藤原氏だったのか」は今でも研究者の間で論争になっていますが、そうなってしまったのも信長自身が「どっちでもいーじゃねえか」って行動したからのような気がするんですよね。
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ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
- takuranke
- ベストアンサー率31% (3923/12455)
本能寺の変(1582年)より16年前の永禄9年(1566年)に、 「従五位下・三河守」への任官と徳川への改名の勅許を朝廷から得ています。 桶狭間の戦いで今川氏から開放され、 名実ともに三河国の支配者になるためには、 同格の他の松平一党よりも上の立場としての権威が必要だったので、 朝廷へ三河守を名乗ることを願い出ています。 ただ、朝廷側では、 「源氏(松平)姓が三河守を名乗った前例が無い」として当初は断られています。 経緯を書くと面倒なので省略しますが、 仲介役の近衛前久らが色々調べていくうちに、 源氏である「新田氏」が、 藤原の家系を引いていることを見つけ出します。 万里小路(までのこうじ)家の書庫から先例を探し出し、 得川氏はもと源氏ではあるが、 二流ある惣領の系統の一つに藤原になった先例がある。 として「新田源氏の庶流・源義国以来」の「得川氏」の血脈を受け継いでいるということにして朝廷に意見をし、朝廷も藤原ならば前例があると受け入れて、 家康に三河守を与えたうえに「得川」の「得」を「徳」に変えた「徳川」と言う苗字も与えました。 なので、この頃の家康は、 かつての信長のように一党の領主となることが最優先で、 天下取りまでは考えていなかったと思います。 また、信長も三河の地を家康が支配するほうが都合が良かったので、 反対はしなかったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(__)m。 takuranke様はじめ 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9602)
tigerdragon さん、おはようございます。 もともと三河というところは足利氏の所領の多い場所です。ではなぜ新田敬源氏なんでしょうか?もうほとんど没落してクレームがつかないためです。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(__)m。 お礼のメッセージが遅くなり申し訳ありませんでした。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
- twin-dog
- ベストアンサー率41% (301/721)
信長にしてみれば家康が松平から徳川に変えても「あ、そう?」くらいにしか感じて無かったんじゃないですか? それに家康が松平から徳川に改姓したのは永禄九年のこと。 この時はまだ家康は三河一国のみの中堅大名にしか過ぎませんし、本性は藤原を名乗っています。 もし信長が武家の家柄を重視する人だったら、源氏の名門である今川や武田、ましてや足利なんて恐れ多くてひれ伏してしまうような家柄ですよね。 でも実際には、今川は桶狭間でぶちのめされて没落、足利も追放されて没落、武田は根切りに近いくらいに殺されて滅ぼされてます。 それをやったのはすべて信長。 それから見たら家康の「徳川」の由来なんて所詮「自称」にしか過ぎませんし、家康が源氏を名乗るのは、信長が本能寺の変で横死して6年もあとの天正十六年のことです。 だから家康が徳川=世良田=新田ラインを主張するのは完全に秀吉対策。 この頃の家康は三河、遠州、駿府、甲斐、信濃の五か国が領地の、秀吉に次ぐ力を持った大大名ですから、内心完全に次の天下を狙っていたと思います。 それに「源氏がうんちゃら」なんて言うなら柴田勝家だって源氏ですよ。それも家康の「自称」源氏よりも遥かにはっきりした家系でね。 信長が生きていたころの家康は一応対等の同盟関係ですが、実際には家臣みたいな存在で、信長直臣の柴田、明智、丹羽、滝川、羽柴よりはちょっと上。くらいの扱いでしたので、とてもじゃないけど織田にケンカ売れるような存在じゃありませんでしたよね。 ですから、 >松平元康は >『天下の権力は平家と源氏が交代するもの』という考えから、 >織田信長が平氏の血統だと名乗っている。 >次に権力を握るのは【源氏】の血統だから… >同盟を結んだ自分(家康)は【源氏】であるべき… >という考えから【徳川】に改名(復姓)した。 と言うのは完全に後世のこじつけだと思います。 (と言うか、それを教えた学校の歴史の先生のこじつけ?だって歴史の時系列を知っていれば辻褄合わないもん) 実際、家康が松平を名乗っていた時は本性は「自称」源氏だったのに、徳川に改姓したときには本性も藤原に変えてますから、そのような魂胆があったとは思えませんね。 永禄九年に「徳川」に改姓した理由は、あくまでも「三河守」の官位狙いだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
- fujic-1990
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家康が「徳川」を名乗ったのは、信長が生きているうちだったように思ったので、ウィキで見てきました。 信長が本能寺の変で死ぬのが、1582年(天正10年という言い方のほうが有名かな)ですが、 > 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。 とウィキにはありますので、やはり信長が生きている間に「徳川」を名乗っていますね。 ご存じのとおり今川家の人質になっていた頃には「松平」を名乗っていたわけですが、記憶によると(調べ直していませんが)、家康の父方の数代前の先祖は旅の(乞食)坊主で、とても優秀だったので松平家に婿入りしたんじゃなかったかな。(美男でできちゃった結婚?) その坊さんの出身地が「新田家の領地」であった「新田荘」の「世良田」(いま、群馬県の世良田東照宮のあるところ)だったと記憶しています。まあ、徳川氏がそう言っていた、というダケの話ですが。 新田と言えば、足利と並ぶ源氏の名門ですので、「先祖は新田荘世良田の出身だった」ということで、「源氏の血筋である」と言い張れたのではないでしょうか。 そういう、源氏を名乗る「正当な理由があった」ので、信長も、「俺の後継狙いか」などと勘ぐらなかったのではないでしょうか。 まあ、お子さんは良い線突いていると思います。秀吉は、信長の歓心をかうために、当初は「平氏」を僭称していたようですので。 因みにウィキでは、上記引用部に続けて > 本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙任に > 際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を > 再び称している[2]。 と書いています。 家康も、「一応、徳川ですけどぉ、源氏ではなくてぇ、藤原系でーす」みたいな、信長に対する気遣いをしていたのかもしれませんね。
お礼
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- tzd78886
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家康があんなことを言い始めたのは信長が本能寺で倒れて時間が経過してからです。存命中にそんなことを言えるはずはないので、関係がありません。
お礼
ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。
お礼
再度のご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様のご回答を咀嚼しながらあちこちネットでたずね…母の私が説明できる様、時系列などを確認… やっと takuranke様がまとめて下さっている [今川氏が敗れたことで岡崎城に入り、 三河地方の掌握のために朝廷に官位を要請し、 苗字とともに三河守を賜った] に似た説明↓↓をしてやったところでした。 母(=私)の説明:『義元さんが桶狭間で信長さんに負けたんで 人質みたいな状態から解放されて…ついでに名前も変えちゃおう…って思ったみたい。ちゃんと朝廷から役職をもらうのには それなりの由緒ある血統が必要だったみたいで…それで 新田姓とかまで辿って徳川にした…っていうのが名前を変えた本当の理由みたいよ…。権力が平家・源氏で交代してる…って話も当時からあったはあったらしいけど…そこまで考えてたわけじゃないんじゃないかな…って…。それに 朝廷に復姓を認めてもらった時は まだ信長が天下を取るとか…そんな感じでもなかったみたいだし…時系列も合わないみたいよ…。』 と 説明しましたら納得しておりました。 戦国の世で しかも小さな大名が 朝廷から官位をもらう必要があるとか…その官位に氏素性が関係がある…という事も全く知りませんでしたので 『【名前を変える意味]➡出自の詐称➡(何のため?)➡のちのち天下をとるゲン担ぎ(?) & 征夷大将軍になれるチャンスがくるなら変えておかないと…と思ったからなんですよ~。』 の説明に なんの疑問もなく『そうなんだ…。』と思っていた様でした。 (ただ…よく信長の機嫌が悪くならなかったなぁ…と…。) ※ご北条さんが執権の北条家にあやかって名前をかえた という話もどこからか聞いてきて(本で読んだのか?) 家康も「清和源氏がいいなー。』って感じだったのだろう…と。 息子曰く… 『なんかさぁ~ 知識がないっていうの? やっぱり…勉強しないと…間違って思い込んじゃう…って…こういうのもあるんだなぁ…って思ったよ。先生さぁ… もしかしたら『家康は(源平交代の話)~って思ってた(のかも知れませんね~)。』って仰っただけなのかもしんない。歴史すごく詳しい先生だから…。ぼくが知識がないから勘違いして思い込んじゃってたかもしんない。』 『あぁ…それと…仏教とかもさ…あの世が非科学的だからとかだけじゃなくってさ…ママは日本の文化っていうけど…もう…歴史勉強しちゃったら 檀家辞めていいんじゃね? 墓なくて散骨でよくない? って余計に思っちゃうんだよね。 文化が っていうなら…歴史的に価値のある寺院だけ税金で保護して…葬式仏教で坊主に稼がせるの…もうやめたらいいじゃん。って…。あれ? 歴史を勉強してる大人の人たちって そう思ってないのかな? 世の中…よくわからん事ばかりだ…。』 と…(苦笑)。 ※僧侶の方に悪意はありませんm(__)m。が…息子は…歴史を学習するにつれて【くそ坊主】感が大きくなっている様で…(『敬意を払えるのは…鑑真さんと…〇〇さんと…と…ぐらいかな…。』と。)お許しくださいm(__)m。 息子には 「歴史は また 中学校・高校で詳しく学習するのだから 小学生の間は 大雑把な流れだけ学習したらいいのよ。」(←母に聞かれても困るので) と言うのですが、気になるとず~っと気になる様で なかなか先に進みません。 詳しく調べて…結局 中学校や高校で学習する内容が必要なら… もう初めから中学校の参考書でお勉強したり 学習漫画を読んでみたら? コツコツ丁寧に学習していった方が疑問に思う事が少なくていいんじゃないの? と言うのですが、 そこまでする意欲はないらしく… でも気になる所は知りたい…。 こんな感じの息子なもので…またご質問させて頂くかもしれません。 お許しの上 何卒よろしくお願い致しますm(__)m。 丁寧なご回答をありがとうございましたm(__)m。