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清洲同盟について
永禄四年の織田信長と徳川家康(当時は松平元康)の間の尾参盟約、世に言う清須同盟について質問があります。この同盟は所謂不可侵攻守同盟ですが、その附帯条項で尾張・三河の国境画定がありました。その境界線はどのようなものだったのでしょうか。 また、この両者の仲介人である刈谷城主水野信元の立場はどのような位置にいたのでしょうか。 信長は晩年度々三河吉良に放鷹に訪れてますが、吉良の地が織田の勢力圏だったという事ですよね。同盟成立当時の三河国内の織田勢力圏、また尾張国内の徳川勢力圏はどのように入り組んでいたのでしょうか?
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- tanuki4u
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回答No.1
信長は晩年度々三河吉良 ↓ この段階では、長篠の戦いで武田を打ち、右近衛大将に任官し、家督を信忠に譲り、安土を築城しだしています http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/nenpu.html 義満以降は将軍が右近衛大将を兼任することが慣例となった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E5%B0%86 なので、信長が吉良に鷹狩に行った段階と、清洲同盟締結段階を同じように見てはならんかなと。 この段階では、信長 ≒ 将軍 ですので 戦国時代の境界線というのは、明確なものではなく、 ○○村 山あり谷あり 人すまず ■■村 中間の山は ○○村 ■■村 両方が入ってもいい で ○○村が 領主A ■■村が 領主B だったりします。 勢力圏決定がない場合、○○村が 領主A と 領主B 両方に属したりします。