• 締切済み

江戸時代、脇差と短刀はどのように使い分けられていたのでしょうか。

江戸時代、二本差と呼ばれていた武士は、脇差と短刀をどのように使い分けていたのでしょうか。 相撲で、行司が短刀を一振り帯びているのは、差し違えた際に自害するためであったということを聞きました。 このように武家においても、短刀はもっぱら自害やその他儀礼などに単独で用いたのでしょうか。 幕府による大小拵の規定(『幕儀参考』)によりますと、 大刀 2尺2寸~2尺3寸(定寸) 脇差 1尺6寸~1尺7寸前後 (刀ハ長サ貮尺二三寸を定寸トシ、脇差ハ壹尺六七寸前後ナリ) とあります。 〔参照〕 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/yamasiroya/banzasi.html 刃渡り1尺以上2尺未満のものを脇差、1尺未満のものを短刀と理解しておりますが、「二本差」としての大刀の差し添えはあくまで脇差で、大刀と短刀を2本差すということはなかったのでしょうか。 大刀の定寸を2尺3寸とするならば、1尺7寸前後の脇差というのはかなり大振りだと感じるのですが、いかがでしょう。 ちなみに、時代劇(特に70年代以前の古い作品)でも、明らかに1尺7寸には満たない脇差(短刀?)を大刀に添えて差している武士の描写が、ある程度見かけられます。 ただ、脇差といっても1尺3寸程度の小脇差もありますので、これは短刀ではないのかもしれません。 少々話がそれますが、現在普及している模造刀は、 大刀 2尺3寸5分 脇差 1尺5寸 程度のものが多く製作されているようです(2尺8寸などの長尺物を除いて)。 上の『幕儀参考』というのは、1828年に生まれて1890年に没した松平慶永(春嶽)が著したものですが、江戸時代265年の間には、脇差(または短刀)の定寸ともいうべき長さは、その時々によって異なっていたのでしょうか。 例えば、幕末期の新撰組副長・土方歳三については、局長近藤勇の書簡に 「土方氏モ無事罷在候、殊ニ刀ハ和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広云々……」 とありますから、彼は2尺8寸の刀に1尺9寸5分の脇差しを帯びていたのでしょうが、かなり目立ったのではないでしょうか。 また、町人の「道中差」については、ある辞書には「武士の大刀と小刀の中間の長さ」とありますが、侠客が用いた「長脇差」とは異なるものであるはずですので、この記述は非常に曖昧ではないかと思います。 実際、道中差は「武士の」「小刀」(長さの基準はわかりませんが)よりも長かったのでしょうか。 以上、話題が二転三転いたしましたが、長さも含め、脇差と短刀の使い分け、差料としての「短刀」の位置づけについて質問いたします。 よろしくお願いいたします。

みんなの回答

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.2

江戸時代の刀は感覚的にいうと 2尺以上を刀(大刀)、1尺以上2尺未満を脇差、1尺未満を短刀とした。   短刀は鍔なしが殆ど。 刀は2尺3寸5分を定尺とし、2尺9寸以上を大太刀、2尺1寸以下を小太刀という。(太刀は反りが深いものをいうので、大小をいう、大太刀、小太刀は適切な表現ではないが) 脇差は1尺8寸以上2尺未満を大脇差(長脇差)、1尺3寸以下を小脇差という。   下記の法令では1尺8寸以下が庶民の差せる脇差である。(庶民は大脇差は差せない) 短刀は6寸~9寸5分らしい。   短刀は腰刀、匕首、喰出(はみだし)、鎧通し、首取脇差等とも云う。 武士は二本差しがきまりだが、標準が2尺3寸位の刀、脇差が1尺6寸位らしい。   しかし堕落した旗本のなかには一本差しがいて、2尺位の大脇差を差していた。    博徒が倣って長脇差(殆ど2尺のもあった)を差した。 これらは正徳2年の法令を参考にしたものだが、それ以前はかなり異なる。 刀は4尺以下、脇差は2尺5寸以下の時代もあった。   これは種々の本に書かれており事実と思われる。   元禄時代の道中差しといわれた脇差は2尺1寸であった。    当時道中の物騒さがわかる。 法令以後の庶民の道中差しは1尺7寸以下だろう。 「子孫鑑」には刀は2尺3寸5分、脇差は1尺3寸5分から、1尺8寸までがよいと書かれている。 脇差は予備の刀で切り合いに使う物。   鍵屋の辻のあだ討ちで荒木又衛門は2尺8寸5分の刀が折れ、2尺2寸の脇差で戦った。   庶民は必要に応じ自身を守るものであった。 法令では博徒は1尺8寸以下の長脇差しか差せないが、それ以上1尺9寸9分までの長脇差を差したといわれる。   2尺未満なら大目に見られたらしい。 短刀は護身用で、武士は両刀を携えてはならない場所で持つ。   庶民は脇差の代わりに護身用に持つことがあった。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.1

脇差というのは本来予備の刀ですから刀同様鍔などを備えた拵えです。 従って戦国時代では文字どうり2本差しという太刀2本を携行したくらいです。  刀身も当然同じくらいだった筈です。 これは日本刀の特徴である戦闘中切れ味が低下し易いのを防ぐ工夫でした。 時代が下り平和になると殆ど同じ刀を2本携行する必要もなくなり、次第に刀身が短くなり軽量になったのです。 従って土方歳三のように実戦本意の場合は刀身も長いものを使ったのです。 「幕儀参考」は時代も大分下った時代ですから、大名の殿中心得としての規定とおもいます。 短刀は鍔などを備えず拵えも簡単なもので自衛や自決用などの為に懐中にひそばせたものです。 道中差しは帯びる人の使い勝っ手により決まったのではないでしょうか。 刀はかなり重量があり使用にも腕力を要しましたから。